独自の仕法で全国600もの村々を再興させた二宮尊徳。その事績に感銘を受け、自ら「海の尊徳になる」ことを夢見た男がいた。今月26・27日にG7サミットが開かれる伊勢志摩出身で「世界の真珠王」こと御木本(みきもと)幸吉だ。
御木本幸吉は、1858(安政5)年、現在の三重県鳥羽市に、うどん屋の長男として生まれた。1878(明治11)年、20歳の時、東京・横浜方面へ視察旅行の際、日光にも立ち寄り、尊徳の手で復興がなった事績に触れて感銘を受け、自ら「海の尊徳になる」の意気込みで真珠の養殖事業にまい進した。尊徳の高弟・福住正兄が記した『二宮翁夜話』を「七回味読した」ほどの熱烈な信奉者となった。
真円の養殖真珠を完成させた4年後の1909(明治42)年、幸吉は、栢山の尊徳の生誕地が人手に渡り、雑草が生い茂り、土も見えない状態となっていることを知り、私費でその土地を購入することを即断する。敷地面積は259坪。土地購入の支払いは、分割でしていることから、心酔する尊徳への思いが募っての購入であることがわかる。購入した土地の周りには、そこが生誕地であることを示すように石塀を巡らせるなど整備をし、中央報徳会に寄付している。現在、生家の敷地内に建つ顕彰碑は、1915(大正4)年にその中央報徳会が幸吉の業績を知らせるため建立したものだ。
さらに同じ年、幸吉は生誕地への参拝者のため、当時の最寄駅である東海道本線(現在の御殿場線)松田駅前に「二宮尊徳翁生誕地栢山道 約一里半」と彫られた石碑を設置している。
生家は、尊徳が15歳の時に売り払われ、幸吉が土地を購入した頃は、渡辺儀太郎氏の一家が市内柳新田で居住していた。
1955(昭和30)年、尊徳記念館の完成にあわせ、没後100年祭が行われた際、生家の移築が話題に上った。当時、記念館の建設期成会は、渡辺儀太郎氏の息子・善太郎氏と交渉、生家を譲り受ける。中央報徳会も敷地を小田原市に寄付。5年後の1960年、およそ半世紀前に幸吉が購入した尊徳の生誕地に、遂に生家が移築された。それは幸吉が96年の生涯を閉じた6年後のことだった。
〈取材協力/ミキモト真珠島、真珠博物館・松月清郎館長、松田町、尊徳記念館、秋山起一同館ボランティア解説員〉
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