神奈川県全域・東京多摩地域の地域情報紙

  • search
  • LINE
  • MailBan
  • X
  • Facebook
  • RSS
足柄版 公開:2022年5月14日 エリアトップへ

寄稿 鎌倉殿と県西地域 第3回 藝は身を助くる(弓の名人 河村三郎義秀)

公開:2022年5月14日

  • X
  • LINE
  • hatena
室生神社前の流鏑馬が行われる道路
室生神社前の流鏑馬が行われる道路

 一度は死にかけたが身につけた弓の妙技により、命を救われて名誉を回復した武将がいた。それは河村郷(山北町)を領していた、河村三郎義秀である。

 義秀の従兄、波多野義常は頼朝挙兵の際、強い呼びかけにも応じず悪口をついて頼朝を侮った。捲土重来、関東一円の豪族を糾合した頼朝は、平家を駿河で迎え撃つ前に義常に兵を差し向けたが、これを聞いた義常は討手の到着する前に松田郷で自害して果てる。

 石橋山の合戦で平家方についていた河村義秀も河村郷を取り上げられ、死罪を言い渡された。その窮地を救ったのが、頼朝の老臣、大庭景義(大庭景時の兄)である。彼は義秀の命を秘かに助けた上に、鎌倉の館に匿ってやった。

 建久三(一一九〇)年八月、鶴岡八幡宮で流鏑馬が催されることになったが、射手が足りなくなった。これをチャンスととらえた景義は、義秀が一人逼塞しているのを哀れと思い、射手に推挙する。死んだと思っていた義秀が生きていたことを知った頼朝は怒りが収まらなかったが、外したら死罪にすることを条件に、義秀の射藝を試すこととする。

 義秀は最初十三束(一メートル)の矢に八寸(二十四センチメートル)の鏑を用いた。その後三種類の騎射で放った矢も、悉く的に適中させた。その場に居合わせた人々は感心したのは勿論、頼朝は怒りを解いて罪を赦免し、旧領の河村郷も安堵することとなった。これが、山北町宮地にある室生神社の八百年間連綿と続いている流鏑馬の起源である。

 これは義秀が家伝の藤原秀郷流の射技を日頃から怠ることなく鍛錬していた賜物で、まさに「藝は身を助くる」を実地に示した手本である。因みに波多野義常の息子、有常も優れた弓の名手で御家人に取り立てられ、松田郷を安堵されている。

参考文献/吾妻鏡・河村氏一族の歴史 

■室生神社/(山北町山北1200)

足柄版のコラム最新6

鎌倉殿と県西地域

寄稿

鎌倉殿と県西地域

最終回 承久の乱と高倉範茂処刑の地

12月3日

鎌倉殿と県西地域

寄稿

鎌倉殿と県西地域

第7回 曽我兄弟の養父曽我祐信

11月26日

鎌倉殿と県西地域

寄稿

鎌倉殿と県西地域

第6回 義朝・頼朝に仕えた中村一族

10月15日

鎌倉殿と県西地域

寄稿

鎌倉殿と県西地域

第5回 源頼朝と松田亭の朝長

8月13日

鎌倉殿と県西地域

寄稿

鎌倉殿と県西地域

第4回 頼朝の乳母、摩摩尼

5月28日

鎌倉殿と県西地域

寄稿

鎌倉殿と県西地域

第3回 藝は身を助くる(弓の名人 河村三郎義秀)

5月14日

意見広告・議会報告政治の村

あっとほーむデスク

  • 4月20日0:00更新

  • 4月13日0:00更新

  • 4月6日0:00更新

足柄版のあっとほーむデスク一覧へ

バックナンバー最新号:2024年4月20日号

もっと見る

閉じる

お問い合わせ

外部リンク

Twitter

Facebook