震生湖 弁財天は2代目 市民2千人の寄付で製作
秦野市と足柄上郡中井町にまたがる震生湖。1923年9月1日に発生した関東大震災でできた日本で2番目に新しい自然湖で、面積は1万3000平方メートル、最大水深は10m。その湖畔に立つ福寿弁財天堂には、古代インドでは水の神とされる琵琶弁財天が鎮座している。1974年に秦野市出身の彫刻家・井上久照氏によって作られたものだが、それ以前は別の弁財天が鎮座していた。
時価1億円の大所帯
初代の弁財天は当時「白蛇弁財天」と呼ばれ、江戸時代に造られた木彫りの像。当時の資料には大きさ「一丈六尺(約4m80cm)」とあり、毘沙門天、大黒天、15童子を従え、当時時価1億円ともいわれた。もとは東京・浅草芝崎の宝樹院に安置されていたが明治時代の神仏分離令により同院が廃止。栃木県真岡市の長蓮寺へ動座された。その後、約100年間は地元民などの崇拝を受けてきた。
この弁財天が震生湖にきたのは1961年。古くは崇められていたが、徐々に信仰も薄れていた弁財天を同寺住職の浜田観冏(かんげい)氏は「もう一度世に出したい」という願いを持っていた。
これを聞きつけた秦野市今泉の小泉正延氏が当時の秦野商工会議所会頭・柘山寿郎氏などと真岡市に行き交渉。同年8月、毘沙門天、大黒天、15童子を含む大所帯の弁財天は同湖に動座される運びとなった。
真岡市からトラック2台での陸送。さらに浜田住職も一緒に秦野に滞在し、12月には弁天堂の落成式、遷座式が行われた。
しかし翌年、浜田住職は家族の都合により栃木に戻り、弁天堂は閉鎖。その後浜田住職は他界し、1969年には長蓮寺の意向により弁財天は東京・中野の寺院へ遷座された(現在は長蓮寺に戻されている)。
弁財天がなくなってから5年。市民からは「湖の守り神を」という声が多く、市民らによる秦野福寿弁財天奉讃会(会員約2000人)が立ち上がり約180万円の浄財も集められた。
現在の弁財天は、秦野市内の学校、文化会館などにも像を建立し、日展にも入賞している彫刻家の井上久照氏が浄財を実費に製作した弁財天像だ。1974年、琵琶を持つ「琵琶弁財天」が安置された。
拝礼は、毎月7日、17日、27日の午後1時30分から行われている。
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