秦野 社会
公開日:2025.08.15
燃えた空、今も鮮明に
続・武勝美さんの記憶
終戦から今年で80年。寺山で生まれ育った武勝美さん(88歳)から、戦下の市民の暮らしについて聞くことができた。
当時、国民学校(現在の東小学校)ではカボチャやサツマイモを育て食糧増産に備えていた。「登下校の際には奉安殿に最敬礼をしたことも良く覚えています」。子どもたちは飛行機の燃料になる松脂を取りに森に入ったり、出征兵士の家の麦踏みを手伝ったりすることを、ある種の遊びとして楽しんでいた節もあったという。「貧しかったと感じたことはなかった」と武さんは振り返るが、記憶の片鱗から総力戦となっていた日本の姿がうかがえる。
空襲への恐怖
児童らは、集団で下校する日には敵機襲来に備えて避難訓練を行っていた。「上級生が突然『伏せ』と大声で指示したら、全員その場で道路に伏せて両手の親指で耳を、人差し指と中指で目、薬指で鼻、小指で口を強く覆う。埃だらけでも、泥道でも伏せをした」。また、「畑にいたヤギが機銃掃射で死んだ。白い服で表に出てはいけない」と母親に言われていた。飛来するB29は富士山を目指し、そこから京浜工業地帯を空襲する。秦野上空は、その通り道だったのだ。
1945年7月16日の平塚の大空襲は、寺山の空も赤く染めるほどの大きな爆撃だったという。武さんはその光景を「庭の隅の大きな栗の木にもちだした布団に潜り、震えながら見ていた」と振り返る。武さんの家の栗の木はもうなくなったが、焼き付いた記憶は色あせない。
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