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秦野 文化

公開日:2025.08.29

燃えるまちと語らぬ兄
田中忠良さんの記憶

  • 当時の記憶を語る田中さん

  • 田中さんの兄と甥がまとめた記録

 131機のアメリカ軍B-29爆撃機による甲府空襲。山梨県甲府市愛宕町に住んでいた田中忠良さん(90・秦野市堀川)は、家の両側から迫る炎から逃れ避難した愛宕山で「メラメラと燃える甲府駅を見た」と話す。

 戦時中、山梨県師範学校附属国民学校に通っていた田中さん。「昇降口に真珠湾で戦死した九軍神の写真があり、最敬礼して教室に向かった」と当時を語る。鉄棒に身長と同じくらいの木刀を打ち込む訓練や、整列して木刀を持ち、片道20分の武田神社にかけ足行進した記憶があるという。

 また、B-29が南から飛来し、身延線の線路を目印に進路を変え東(東京方面)へ消えていく。そのたびに空襲警報が鳴り、校庭の隅に穴を掘り木材や土を被せた簡素な防空壕に身を潜めた。

 その際、教師から名前を呼ばれ歴代天皇をそらんじた。「天皇陛下のために死ぬのは当たり前、天皇は神様だと教えられていた」と振り返る。

 そして1945年7月7日。戦地に送る慰問袋を作り就寝したのち、空襲で甲府のまちは焼け野原に。自宅は塀だけを残し全て焼けていた。

大隊を率いた兄

 もう一つ覚えているのが、成績優秀で周りより1年早く士官学校に入った15歳年上の兄。25歳の時に満州にいた兄は、フィリピンに出征し大隊を率いたという。

 生還した兄は戦争について何も語らなかった。その過酷さは兄自身が残した本『戦車第二師団 機動歩兵第二連隊 比島捷号作戦の経過と結果』や、兄の死後に甥(兄の息子)がまとめた2冊の記録で知った。

 記録によると、700人いた大隊の生存者はわずか35人。戦闘より食料不足による死者が深刻で、ネズミを食べたなど戦地での自活が記述されている。過酷な状況から精神に異常をきたし、自死を選ぶ者もいた。

 田中さんは、「自分も年だし、病気もある。今のうちに話すことができてよかった」と語った。

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