1945年、スターリンの指令でシベリア抑留が開始されたとされる8月23日に合わせ、国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑=東京都千代田区=でシベリア・モンゴル抑留犠牲者追悼の集いが行われた。あいさつに立ったのは、シベリアで約4年間の抑留生活を経験した、奈良町在住の新関省二さん(93)だ。
満州に侵攻してきたソ連により、終戦後に日本兵や民間人ら約60万人がシベリアに移送され、強制労働に従事。過酷な労働環境のなか、約6万人が亡くなったとされる。
追悼の集いを主催するシベリア抑留者支援センターの世話人である新関さんは、昨年に続き主催者代表としてあいさつ。「体験者がいなくなれば、確実に記憶は風化する。そのことが1番心配」
抑留から74年が経ち、体験者の平均年齢は96歳になる。経験を伝えられる語り手が減るなか、若年で出征した新関さんが語り手を引き継ぐ。
抑留は戦時中の出来事でなく、犠牲者は栄養失調と病気、過酷な強制労働による労災等で亡くなったと話し、帰国後は日本で疎外され新たな人権侵害を受けることも多かったと指摘。「重層的な不条理の歴史を正確に知ってほしい」
東京で生まれ、父親の転勤で札幌へ。中学卒業と同時に18歳で特攻隊を志願した。出征しなくてよい年齢だったが、「どうせ戦争で死ぬなら華々しくと。それが誉れという時代だった」。
千葉県柏から満州の部隊に転属したが、実際には飛行機やガソリンもないまま終戦。ソ連との交渉により武装解除を受け、軍はソ連の管轄に。「日本に帰す」と言われ、乗り込んだ貨車で移動生活を送り2カ月後、到着したのはシベリアのレニンスク・クズネツキー収容所。そこが「捕虜生活」の始まりだったという。
新関さんは、同収容所で炭坑作業に従事。ここでは日本人約2千人が収容されたが、零下20度にもなる極寒のなか、伝染病や栄養失調などで106人が亡くなったという。
1年目は毎日のように人が亡くなり、遺体が5、6体になると、指示を受け仕事が休みの日にトラックで運搬し裏山に埋めた。真冬は遺体も凍り、地面も凍り付いて掘れないため、雪を被せ、春になるのを待って埋めたという。「ソ連側の指示で裸にして埋めて。可哀想だった。でも脱がせるしかなかった」
苦難の日々だったが、それでも少しずつ収容所の状況は変化。憩いを求めた日本人の間で楽団結成の話が持ち上がると、楽器経験者として担当したのが、子どものころから趣味で慣れ親しんだアコーディオンだった。
炭坑作業の傍ら練習し、ギターやトランペットなど6、7人で月1、2度演奏した。「日本の歌を聴けると喜んでもらえて」
だが、こうした状況は「収容所という場所があったからできたこと。貨車生活で移動しながら強制労働を送った人は特に苦しかったはず」という。
3年後、ついに帰国者の編成に加えられ、日本への引揚船を待つナホトカの地へ移った。だが引揚当日、楽器が弾けることを理由に一人、ナホトカに残されることに。ソ連側の管理部の文化部で音楽家として1年以上、引揚の仕事を手伝った。
帰国後は差別も
日本への帰還が叶い、6年ぶりに両親と再会を果たしたのは、1949年。だが待っていたのは周囲からの差別。名前でシベリア帰りと知られると、共産党に洗脳されているとのイメージから「赤だ」「共産党だ」と言われ、仕事に就くことはできなかった。「ソ連の言う共産主義に賛同しなければ、早く帰れないと思い賛同していただけ。戦時中は『捕虜になるくらいなら舌を噛んで死ね』と言われていた時代でもあった」
1年間粘ったが、家族が住む札幌を離れ名前が知られていない東京で就職。同じ収容所から帰国した体験者で「レニンスク白雪会」が結成され、現在は会長を務める。老人会で体験も語ってきた。
「若い人はシベリア抑留を知らない人も多いが知ってほしい。どんな生活を送ったか、無関心でなく疑問を持たなければ忘れ去られてしまう」
現政権が目指す憲法改正案の一つ、自衛隊明記についても懸念する。「軍隊みたいにならないか。絶対に戦争してはいけない。参加もしない。武器の加担もしないでほしい」
戦後74年。「この手で埋葬し、必ず迎えに来ると誓った約束も果たされていない」。2010年に犠牲者の遺骨収集等が盛り込まれたシベリア特別措置法が制定されたが、未だ1万5千人の正確な死亡情報は得られず、多くの遺骨がロシアに残されたままになっている。
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