今日から新元号「令和」の時代が始まる。この記念すべき節目の年に港北区も区制80周年を迎える。そこでこれまでの港北区の歴史を振り返り、令和の時代に向けた展望を大倉精神文化研究所の所長平井誠二さんに聞いた。
始まりは小机城
港北の歴史を振り返るに当たり、欠かすことのできないのは「小机城」だ。室町時代に小机城は、太田道灌に滅ぼされていたものを小田原北条氏が改築する形で復活した。
戦国時代に、小田原北条氏が武蔵野国に勢力を伸ばすための拠点となり、次第に街の中心になった。それは、江戸時代まで変わることはなかった。
急変する大正期
明治期には、鶴見川と道路の交差する綱島・太尾・小机を中心に栄えていたと考えられる港北区。大正時代に大きな変換期を迎えることとなる。大正12年、関東大震災が発生し、横浜・東京が壊滅。その後そこに住んでいた富裕層が郊外に移り住むようになった。大正15年に東横線の開通したことが重なり人口流入の勢いがさらに強まっていく。当時流行したのは洋館付き住宅。今なお妙蓮寺や菊名を中心に残っている。
港北区誕生
昭和14年港北区誕生。当時は、現在の都筑・青葉・緑区も含まれていた。川崎市にも日吉小学校があるのは、分区の名残。今なおその名残は古い看板などに点在している。
昭和17年、横浜線と東横線が交差し交通の要所であった菊名に新庁舎が完成。しかし昭和19年に火災が発生する。昭和23年、区制施行10周年を迎えた年に、庁舎の竣工式が行われた。人口が増加し、庁舎が手狭になったため、昭和53年に区の庁舎(現行)が建てられる。
庁舎が来たことで、大倉山駅東口の商店街は「レモンロード」を中心に栄える。昭和59年に大倉山記念館がオープンしたことをきっかけに同駅西口の商店街では、地中海風の「エルム通り」をわずか1年で完成させる。モデルとなったギリシャには視察団が向かい、姉妹都市提携を結んだ。
平成の街新横浜
大雨が降ると湖の中に駅があるような状況であった昭和の新横浜。昭和60年のブルーライン開通。平成3年から始まった新横浜パフォーマンスの盛り上がり。平成元年の横浜アリーナ、平成10年の横浜国際総合競技場の誕生などで街全体が勢いづき、次第に港北区の経済の中心地になっていく。
令和に向けて
いくつもの進化を遂げてきた港北区であるが、これからもその進化は止まりそうにない。
現在は、綱島街道を中心とした開発の動きが活発である。また、新羽や新吉田の空き地の開発余地が人口増加に繋がると期待されている。グリーンラインが来春に増便することにも注目していきたい。
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