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戸塚区・泉区

公開日:2022.03.03

第76話〜門倉玄春 名瀬出身の蘭方医〜
とつか歴史探訪
■〜旧東海道・戸塚宿を訪ねる〜

  • 名瀬町にある門倉玄春の墓碑

    名瀬町にある門倉玄春の墓碑

 蘭方医門倉玄春は、天保5年(1834)に名瀬村(現戸塚区名瀬町)の門倉治郎左衛門の長男として生まれました。門倉家は名主も務めた家柄です。幼少の頃病弱で、江戸の親類の家で養生していました。長じて医学を志し、実家の農業を捨てて26歳のとき蘭方医の伊東玄朴に入門しました。伊東玄朴はシーボルトについて医学を学び、江戸に種痘所を開いたりした人です。ここで一通りの医術を修めた玄春は、戸田大和守忠至の侍医となりました。戸田忠至は山稜奉行に任じられて畿内に移り、玄春も京都に居を移しました。



 慶応元年(1865)に兼ねてから念願であった長崎遊学を命じられました。長崎ではオランダ人医師ボードイン、マンスヘルトについて修行を積み、慶応4年に京都に帰りました。この頃は幕末・維新の激動の時期で、玄春が京都に着いたのは鳥羽・伏見の戦いの2週間ほど後のことでした。



 明治2年(1869)には戸田忠至に従って東京に移り、戸田氏の邸近くで療養所を開いていました。明治3年7月主命により築地からシティ・オブ・エド号に乗船し横浜に向かいましたが、ボイラーの爆発事故にあい37歳の若さで命を落としました。墓は名瀬町の門倉家にあります。また主君の戸田忠至は玄春の死を悼み、自身の菩提寺市ヶ谷道林寺に石碑を建立しましたが、その後の戦災で寺が移転したため、石碑は失われてしまいました。



 近代医学の黎明期に先端の医術を学び、将来を期待された門倉玄春が、若くして不慮の死をとげたことは、惜しんで余りあることです。

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