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公開日:2025.08.14

忘れられない死の臭い
神奈川区在住 緑和子さん(95)

  • 「あんな辛い思いはもうしては駄目」と緑さん

 「学校から家から、横浜中が全部燃えちゃいましたよ」。1945年5月29日の朝、横浜の空は500機以上のB29爆撃機に埋め尽くされた。神奈川区在住の緑和子さん(95)は当時15歳の女学生。伊勢佐木町に住んでいたあの日見た地獄と、戦後の混乱を今も鮮明に記憶している。

 その日、学校では授業が始まる前に先生から「今日は危ないからお家に帰りなさい」と告げられ、緑さんは伊勢佐木町の自宅へと戻った。

 しばらくすると空襲が始まり、街はあっという間に火の海に包まれた。周囲に火の手が迫ってきたことから、隣組の人と一緒に中区と南区の境にあたる駿河橋近くの公園まで逃げた。

 「火が本当に暑かった。川の水も干上がって川底が見えるほどでした」。母と妹とともに、その日は宝生寺=南区堀ノ内町=まで逃げ、本堂で一晩を過ごした。

 関東大震災の経験から多くの市民が安全だと信じて避難した久保山では、山を上がる人々が上から狙い撃ちにされた。中区の小港町に住んでいた同級生は、機銃掃射を避けるために布団を被って海に逃げ、竹筒を咥えて息をしたという。「私も防空壕から出た時、低空飛行の飛行機に狙われました。パイロットの顔が見えるほど近く、撃った弾がすぐ側の地面を『ぴょーん』と跳ねる音がしました」。

 街に戻ると、耐え難い光景が広がっていた。「親族を亡くした人が、焼け跡から遺体を探し出し、川べりで燃やすの。だって火葬場も焼けちゃったんだもの。そのひどい臭いが、あちこちから漂ってくる。あの臭いは忘れられない。本当にさ、恐ろしいね」。多くの犠牲者は身元も分からぬまま大きな穴に埋められ、正確な犠牲者数はいまだに不明だ。

 玉音放送は母の実家があった疎開先の小田原で聞いた。「電波が悪くてよく聞こえなかったけれど、おばあちゃんから『これで負けたんだよ』と聞かされた」。

 終戦後、横浜には進駐軍があふれた。主要なビルは接収され、デパートは米兵専用になった。「私たちは継ぎ接ぎだらけの服なのに、ショーウィンドウには素敵な洋服が飾られていました」。闇市が横行し、一部の人間が横流し品で富を築く一方、多くの国民は貧しい生活を強いられた。「もう戦争はしてはいけません。良いことなんて一つもない」。そう力強く語る。

 戦時中は「鬼畜米英」と教えられたが、敗戦と共に街には横文字の看板が溢れ、これまでのものが否定され、アメリカの文化が礼賛された。「日本にだって良いものがあるんじゃないか」。その思いを抱えた中で、母の実家の蔵で見つけたのが、能の謡(うたい)の本。以来75年、昨年まで舞台に立ち続けた。

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