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中原区 社会

公開日:2026.08.07

戦禍の記憶【2】 中原区新丸子東在住 島田叔昌さん(90) 縁故疎開で目撃した閃光 大山で真冬に寒風摩擦

  • 疎開時の思い出などを語る島田さん

    疎開時の思い出などを語る島田さん

 広島県出身だった父親が弁護士だった。その父親が兵隊に応召され、各地で裁判に従事していた中、川崎市の日進町で生まれた。

 宮前国民学校3年生のときに、大山(伊勢原市)へ集団疎開。親元を離れての生活は寂しく、少ない食事、ノミやシラミにも悩まされた。それでも、大山の頂上に登ったり、柿を取りに行ったりと楽しみもあった。冬の朝の寒風摩擦は「あれは寒かった」と強く記憶に残る。母親が大山までせんべいを持って来てくれたことがあった。「母親みんなが来るわけじゃない。だからうれしかった」

 大山から川崎に戻ると、父親の実家があった広島県賀茂郡黒瀬町に家族で疎開。川崎大空襲の3日前だった。戦後、料亭を営んでいた母親の実家に行ったときに従業員から「あんたら本当助かったよね」と言われた。黒瀬町では、改築した米蔵で弟2人と母親の4人で生活した。地元の学校に通い、田植えの手伝いや、缶蹴り、隠れんぼをしてよく遊んだ。イナゴを取ってくると近所の人が焼いてくれた。「おいしかったよ」と笑顔を見せる。

 8月6日。朝礼のために学校の廊下を歩いていると飛行機から落下傘が落ちてくるのを目撃。「その後、箱のような形の四角い爆弾が落ちてきた。あれは何だと話をしていたら、ピカッと光って。音は聞こえず、大きな雲が見えた」。同級生の兄がトイレに入って助かった、姉がひどいやけどをして帰ってきたという話を聞いた。「変な爆弾だったという話ばかりで原爆だと知ったのはその後だった。中心地から離れていたから時間が掛かったんだろうね」

 玉音放送を聞いた記憶はない。「お盆でおはぎを楽しみにしていた。戦争が終わったと聞いて、母親に『お父さん帰ってくるの?』と聞いたら泣き出してね。そのことをよく覚えている」

 その父親が出征地の中国から帰ってきたのは、翌年の冬。広島からすぐに親戚を頼って川崎へ戻り、1年後家族も帰った。食べるものが少なく、父親が弁護士の仕事をしながら、畑で野菜を作って食べた。「自分は周りに比べればまだいい方。やっぱり戦争はやってはいけない。そのためにも情報を収集することが大事。それが戦争の抑止力になるはず」

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今年で戦後81年。体験者が年々減少し、戦争の記憶が風化しつつある。当事者の記憶を後世に残すとともに平和の意義について考える。不定期で連載。

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