町田市内の遺跡の中には、祭祀場と思われるストーンサークルも見つかっている。都史跡田端環状積石遺構(小山町3112の2)がそれで、約3500年前〜2800年前の縄文後期中頃から晩期中頃までに連続的に構築された遺構だ。
大小の自然礫を帯状に積み上げ、長軸(東西)約9m、短軸(南北)約7mの楕円形になっており、その下には墓跡が30基ほどあり集合墓地となっている。祭祀場として使われていたと考えられ、日常用具以外の特殊遺物も多数発掘された。
長軸を伸ばした先には富士山があり、また冬至には長軸の延長上にある丹沢山系で一番高い蛭ヶ岳頂部に太陽が沈む。中空土偶(関連記事「町田と北海道を繋ぐ土偶」参照)は、ストーンサークルから数メートル離れた、このような場所で発見された。
町田市教育委員会生涯学習部の学芸員・川口正幸さんは「冬至を太陽の死とし、墓地をそれにダブらせ、丹沢のピークを介して一直線に並ぶ位置にストーンサークルは作られた。太陽は再び光を増し、夏至に向かって日没の位置は移動する。これが縄文人にとっての『死と再生』のサイクルだろう。そのような宗教的観念を持った集団が中空土偶などを使用して、祭祀を執り行っていたのではないか」と分析する。縄文人が往来の良さや、住み良さからではなく、宗教的な観念を持って『場所』を決めたことが分かる。
土偶は完全な形で発掘されることは少なく、破壊されるものとして利用した形跡を残している。「人形(ひとがた)のようで人形ではない、人形の形状を借りながらも、現実の人には似せない、何か超越的なもの(カミ)を表現しようとしたのでは」と川口さん。
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