町田 社会
公開日:2025.09.04
戻ってきた「慰問文」
下小山田町在住 宮下靖夫さん
下小山田町に暮らす宮下靖夫さん(96)は、少年時代に戦争を経験した一人だ。前線の兵士を励まし、労うために戦地へ送った自身が書いた手紙(慰問文)のことなど、戦時中を振り返り、当時の暮らしや空襲の惨状、学徒動員の体験を静かに語ってくれた。
日中戦争が続く1937年、小学5年生だった宮下さんは、戦地の兵士に向けて絵と文を書いた「慰問文」を作成した。「内地の自分たちが、兵隊さんにできることは何かという思いで書きました」。ただ、前線へと送られ、兵士の目にとまったものと思っていたものが約60年の時を経て手元に戻ってくることになったという。当時の図画の先生が、宮下さんの絵を「残しておきたい」と考え、自宅に保管していたのだといい、母校の周年行事で掲示されているのを友人に知らされ、約60年の時を経て再会することに。「戦地に送ったはずなのに残っていた。空襲も免れ、よくとっておいてくれたと思います」と振り返る。
慰問文を書いた当時は「欲しがりません勝つまでは」と言われた時代。食べ物も乏しく、遠足でバナナや卵を持たせてもらえたときは大きな喜びだったという。「今では想像できないくらい貴重だった」と話す。
戦争の爪痕は、より深く宮下さんの人生に刻まれている。1945年3月10日、深川区木場(現江東区)の自宅で東京大空襲に遭遇。父を亡くし、家も焼けた。母と妹は富山に疎開していたが、たまたま用事で戻ってきた日に空襲にあった。母や妹、弟は先に逃げ、宮下さんは火消しにあたる父とともに残った。焼夷弾が落ちる中、父から「逃げろ」と言われ、必死に火の海を駆け抜けた。防火水槽の水をかぶり、焼け跡を突き抜けて自身は生き延びた。夜を明かし、目にしたのは無数の遺体だった。「道に死体が重なり合い、顔も判別できない。怖いと思わなかった。見慣れてしまったのかもしれない」と当時を思い出す。
家を失い、身を寄せたのは学徒動員先だった。中学2年の後半から、級友とともに海軍省の軍需工場で働いた。軍艦の部品を作る日々は勉強とは無縁で、子どもながらに社会の厳しさを知ったという。その心情を詠んだのが「温かき家から一歩外に出ず 外は無情の寒風ぞ吹き」。戦地に赴いた大人たちの代わりに働く中で、社会の冷たさを痛感したのだという。
「ただ空虚」
終戦を知らせる玉音放送を聞いたのは新小岩の電器店。「悔しいとも思わず、ただ空虚だった」と振り返る。それでも胸に残るのは「戦争は何もしていない人の命を奪う」という事実だ。東京大空襲で一夜に10万人が亡くなったことを思い、「何の罪もない人々がなぜ犠牲になるのか」と問い続けてきた。
10年ほど前まで、両国の慰霊堂で行われる慰霊祭に足を運んできた宮下さん。今は体調面を考えると参列できないが、その思いは変わらない。「やっぱり戦争はよくない。平和であることのありがたさを忘れてはいけないね」
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