三浦版 掲載号:2018年3月9日号
  • googleplus
  • LINE

連載 第11回「和田合戦のこと」 三浦の咄(はなし)いろいろ みうら観光ボランティアガイド 田中健介

和田塚にある墓碑
和田塚にある墓碑

 鎌倉期の建暦三(1213)年の二月、信濃国の僧で阿静房安念(あじょうぼうあんねん)という人物が捕えられました。調べの結果、同国の泉親平(ちかひら)が故源頼家の遺児を助けて、当時の執権北条義時を討つ計画があることがわかりました。その陰謀の中に和田義盛の子義直・義重と甥の胤長(たねなが)がいたのです。その後、義直と義重は許されますが、胤長だけは許されず、一族の前で後ろ手に縛られ連行され、その後陸奥(むつ)国岩瀬(福島県岩瀬郡)へ配流されました。後になって、北条義時は、胤長の旧屋敷を拝領して、義盛の代官を追い出すなどの行為にでます。

 途中で改元があって年号「建保元年」の五月二日に義盛は挙兵し、御所と義時亭を襲います。

 その事柄について、『明月記』(1235年成立、藤原定家の日記)の建保元年の五月九日の条に、「伝々説」(註・伝え聞くの意)として、「和田左衛門尉某(じょうぼう)、三浦党と号す、横山党、両人共にその勢抜群の者云々。合い謀り、去る二日申時(さるのとき)(午後三時〜四時頃)、将軍幕下を忽(たちま)ちに襲ふ。」とあり、その時、将軍家は無警備で酒杯をあげ酔っていたと言われ、将軍や北条義時、大江広元らは山へ逃げ入った。と記されています。

 『本朝怪談故事』(正徳六(1716)年【八代将軍吉宗公の時代】に刊行)の中に、次のような話が載っています。

 「往昔(そのかみ)、建保元年ノ頃、和田ノ義盛、実朝公ヲ恨ンデ遂ニ謀叛(むほん)ヲタクム。露顕シテ一戦ニ及ブ。義盛ガ三男ニ朝夷奈ノ三郎ト云、勇カ無双ノ者アリテ、門ヲ破リ庭ヘ乱レ入リ、鎌倉勢多討レケレドモ、終ニ此戦討負テ、和田ノ一家、此時(このとき)皆々或ハ逐電(ちくでん)シ、又ハ討死シケリ。義盛六十七歳ニテ討死シケリ。其ノ時、彼ノ朝夷奈ハ相残レル五百騎計(ばかり)ノ勢ヲ引具シテ、船ニ乗リテ、安房国ヘ赴キ、夫レヨリヌ高麗(こうらい)(朝鮮中古の王朝)ヘ渡リテ釜山(ふざん)海ト云所ニテ、嶋人ヲ伐靡(きりなびけ)、遂ニ此ノ所ニテ死シテ神トナル。則(すなわち)、嶋ノ神ト号ス。彼国ノ者ハ専(もっぱ)ラ朝伊奈ノ社ヲ祭リテ力ヲ請(こう)故ニ、名(なづけ)テ浦人ハ力神(ちからがみ)ト号スト『異人叢話』ニ見エタリ。」とあります。また、「案ルニ『神社考』ニ、為朝、朝伊奈ノ社ヲ載テ、今ト同。曰(いわく)、『建保元年ニ和田氏伏誅ス。義秀ハ遁(にげ)テ房州ヘ至リ、高麗国ヘ赴ヌ。対馬ノ人、余ニ謂曰(かたりていわ)ク、釜山海ニ朝伊奈社アリテ、浦人時々祭ルト云ヘリ』ト云云」。

 なお、この書の註に、「朝夷奈ノ三郎は「豪勇怪力の伝説的英雄である。」として、「残兵を率いて安房へ渡った以後、その終る所を知らずという。そこから、朝比奈島をわたり等の伝説が生じた。」とあります。

 和田義盛最期の地と言われる鎌倉の由比郷に「和田塚」と称する地があり、「和田一族戦没地」と書かれた石塔の他、「和田一族之碑」。さらに「和田義盛一族墓」の石塔などが祀られています。石塔の裏の地には数多くの五輪塔も見られます。地元の表示では「和田一族敗死の屍を埋葬した塚として今日まで伝承されている。」とあります。

(つづく)
 

三浦版のコラム最新6件

100まで元気!健康ワンポイントアドバイス

連載 第二回「オーラルフレイル(口腔ケア)」

100まで元気!健康ワンポイントアドバイス

6月8日号

東京大学三崎臨海実験所異聞〜団夫妻が残したもの〜

三浦の咄(はなし)いろいろ

連載 第17回「飴屋踊りのこと」

三浦の咄(はなし)いろいろ

6月8日号

三浦の咄(はなし)いろいろ

連載 第16回「菊名左衛門重氏 氏のこと」

三浦の咄(はなし)いろいろ

5月25日号

三浦の咄(はなし)いろいろ

連載 第15回「琴音海岸のこと」

三浦の咄(はなし)いろいろ

5月11日号

100まで元気!健康ワンポイントアドバイス

連載 第一回「地域包括ケアシステム」

100まで元気!健康ワンポイントアドバイス

5月11日号

三浦版の関連リンク

あっとほーむデスク

三浦版のあっとほーむデスク一覧へ

最近よく読まれている記事

コラム一覧へ

三浦版のコラム一覧へ

バックナンバー最新号:2018年6月8日号

政治の村で詳細情報発信中

お問い合わせ

外部リンク