茅ヶ崎・寒川 社会
公開日:2026.03.06
「地域のつながりが災害への備えに」
東日本大震災を経験 高橋さんに聞く
東日本大震災の発生から間もなく15年を迎える。茅ヶ崎市社会福祉協議会で働く高橋未菜さんは、大きな被害を受けた宮城県南三陸町の出身。15歳で経験した震災やその後の避難生活、また現在の仕事について聞いた。
卒業式前日の震災
当時、志津川中学校の3年生だった高橋さん。3月11日は卒業式の前日で、リハーサルを終えて教室で友人たちとリラックスした時間を過ごしていた。
午後2時46分、「まるで自動車に衝突されたような衝撃」に見舞われる。記録では揺れは3〜6分とされるが「体感では10分以上続いた、と感じるほど長かった」。
一方ですぐさま机の下に潜り込んで安全を確保し、周囲にも怪我をした人はいないなど「比較的冷静に行動できた」という。「南三陸町はこれまで何度も大きな地震に見舞われていて、『必ず大きな地震がくる』と言われていました。総合学習で過去の被害を調べたり、避難訓練が徹底されていたことも大きかった」と理由を語る。
その後、生徒たちは教諭の指示で体育館へ避難。「先生からは絶対に外に出ないように言われていました」
高台にあり避難所にも指定されていた中学校には、地域住民たちが次々と避難し体育館がいっぱいになってきたため、夕方、生徒たちは教室に戻ることに。そこで初めて、津波で変わり果てた街を目の当たりにしたという。
高橋さんの家は同町でも海に近い荒砥地区にあったことから「母は亡くなってしまったに違いないと思って涙が止まりませんでした」。
電気はなく、家族とも連絡が取れないなか、ろうそくの明かりを頼りに不安な夜を過ごした高橋さんたち。当日が誕生日だった同級生をクラス全員で祝ったり、卒業式で披露する予定だった歌を歌うなどして、励ましあった。
避難生活で感じた地域の助け合い
すると翌日の昼、兄が高橋さんを迎えに学校を訪れる。震災時、たまたま午前中で仕事を終えて帰宅していた兄は、母と一緒に避難していることがわかったという。
避難先で母と再会を果たした際は「人生で一番泣いた」と互いの無事を喜び合った。
高橋さん一家は、開設間近だった老人ホームの一室で避難生活を送ることに。指定避難所ではなかったため、支援物資がなかなか届かなかったものの、近隣の食品加工工場から食料が届いたり、住民同士が限られた水や食品、衣類や毛布を分け合いながら過ごした。「もともと全員顔見知り、というくらいつながりの強い地域だったことで、自然と助け合うことができた。大変だったけれど、避難生活を大きな問題なく過ごすことができた」と振り返る。
福祉の道へ
約1カ月の避難生活を送った後、親類のいた仙台に一家で移り住んだ高橋さん。「母が曽祖母の介護をする姿を見ていてもともと興味があった」と、介護科のある高校に進んだ。
さらに大学で社会福祉を学び、卒業後はデイサービスや特別養護老人ホームなど介護現場での実務を経験した。昨年7月から茅ヶ崎市社会福祉協議会の職員として働いており、現在は地区社協等、福祉活動の支援などに取り組んでいる。
「震災を風化させたくない。自分の体験が地域のために役立つなら」と高橋さん。いつか来る災害への備えとして「食料や物資を備蓄しておくことはもちろん、いざという時にどこで待ち合わせするか、など家族と話し合っておいてほしい。また非常時には『お互い知っている』ことが大きな安心につながる。普段から近所の人たちと挨拶を交わすなど、顔の見える関係性を作ってもらえたら」と話している。
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