日本国憲法の制定過程から学ぶ 日本国憲法の公布とケーディス大佐 〈寄稿〉文/小川光夫 No.97
1946年(昭和21年)11月3日、日本国憲法公布の式典が貴族院本会議場で行なわれた。その傍聴席にはGHQの関係者等が多数参席したが、その2階の中央前列には憲法草案を作成した民政局員が集合していた。彼らは他の関係者よりもいち早く席を確保し、公布式が始まるのを楽しげに待っていた。その現場を撮った写真が残っており、ケーディス大佐が最前列でにこやかに笑っているところが写っている。憲法原案作成の責任者でもあった彼の満足感が伝わってくるようである。ところで、マッカーサー元帥の部下には四天王と呼ばれる人物がいた。その中に参謀第2部(G2)のウィロビー少将と民政局(GS)のホイットニー(民政局長)がいて、彼らは犬猿の仲といわれた。ウィロビーは、スペインのフランコ将軍を崇拝し、小ヒトラーといわれるほど共産主義者が大嫌いで、公職追放や警察改革などでGSのホイットニーと対立していた。ホイットニーやケーディスなどGSのニューディーラ(主に共産主義を目標とする民主党左派)達は、ポツダム宣言に基づく社会主義的民主国家の誕生を願ったが、ウィロビーは米ソ冷戦に対処するために日本の旧指導層を極力温存しようとした。こうした政策の違いは日本の政治にも大きな影響をもたらした。
1946年1月4日、GSとG2との激しい論戦のなかで、GSは公職追放令を発して日本の旧軍部を中心に政界や官界、財界などから多数の有力者を追放し、共産党員を釈放して労働組合を育成した。GSの狙いは、46年4月の総選挙において社会党に勝利をもたらし、一方では、保守的な進歩党や自由党を弱体化させることにあったが、選挙結果に満足のいかないGSは、さらに鳩山一郎、石橋湛山などの有力政治家達を追放した。こうして47年4月には社会党が第一党となり、片山内閣が成立した。しかし、ここからウィロビーの巻き返しが始まる。ウィロビー率いるG2は48年、大蔵省主計局長福田赳夫および二宮百基(にのみやよしもと)、来栖赳夫経済安定本部長などを収賄容疑で逮捕し、そのもみ消しの収賄容疑で西尾末広副総理も逮捕した(昭電疑獄=昭和電工社長日野節三が、復興金融公庫からの融資に際し、政官界などに収賄した事件で64人が逮捕された)。一方GSも片山連立内閣の炭鉱国家管理法案の阻止を企てた民主党の田中角栄法務大臣を収賄容疑で逮捕した(炭鉱国管疑獄)。こうした報復合戦の最中、ウィロビーは大磯の旧華族の妻鳥尾鶴代との恋愛の噂になったケーディス大佐をしつこく追い回し、ケーディスを辞任に追いこんだ(鶴代は日野原節三の愛人秀駒を介してケーディスと日野原とを結び付けた)。この頃には米ソ冷戦が激化しており、49年7月4日、マッカーサーは、ついに日本を「共産主義進出阻止の防壁とする」との声明を発表した。またウィロビーに屈したホイットニー民政局長も「公職追放終結の宣言」を出すにいたった。さらにその頃には朝鮮半島における不穏な動きもあり、共産主義者に対するレッド・パージが開始された。その結果、憲法草案を作成した民政局の人達のほとんどがアメリカに帰国することになり、彼らの業績として残ったものが「日本国憲法」であった。
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