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公開日:2025.07.25

学童疎開受け入れた秦野
横浜から約2400人

  • 東光院境内で撮影された疎開児童(秦野市提供)

  • 命徳寺に残る防空壕跡

 1945年8月の太平洋戦争終戦から今年で80年-。戦争の記憶を後世に伝え、何より今を戦前にしないため、本紙では戦時中の証言や未来への思いを数回にわたって紹介していく。今号は、「学童集団疎開の受け入れ先・秦野」について紐解く。

 「バターピーナッツを見ると、お玉一杯ずつ頂いて(きっと秦野の方々のご好意だったのだろう)震生湖や白笹稲荷神社へ遠足へ行ったりした。その時のピーナッツの美味しかったことは忘れられないが、しばらくの間食べる気になれなかった」。横浜から秦野へ疎開した当時小学4年生が、記録集『横浜市の学童疎開〜それは子どもたちのたたかいであった〜』にこう綴っている。

 東京をはじめ都市部が空襲を受けるなどの戦況悪化から、政府は1943(昭和18)年に都市部の学童疎開促進を発表する。当初は縁故疎開が主だったが思うように進まず、縁故疎開をしない小学3〜6年生の「学童集団疎開」を実施。神奈川県では横浜、川崎、横須賀の児童が県内疎開を余儀なくされた。

寺社や住民会館、旅館に分かれ生活 

 当時、中郡と足柄上郡に分かれていた秦野は、横浜の学童集団疎開先に。1944(昭和19)年8月から終戦後の45(昭和20)年10月頃までの1年超、神奈川女子師範付属国民学校(現在の横浜国大教育学部付属横浜小)、滝頭、磯子、根岸、金沢、浜、六浦など国民学校9校の児童約2400人を受け入れた。子どもたちは各地区の寺社や住民会館、旅館の市内40カ所以上に分かれて生活を送り、最寄りの学校にも通った。

 受け入れ先のひとつが東光院(菖蒲)。当時7歳だった山田道成前住職(87)は、数十人の女子児童が疎開してきていたことを覚えている。「少し年上の女の子が本堂で寝泊まりしていた。まわりで育てていた野菜や米の農作業を手伝ってくれた」と回顧する。

 秦野市が1994年に発行した『学童集団疎開の記録』によると、命徳寺(河原町)も56人を受け入れた記録が残る。今でも境内には3つもの防空壕の痕跡があり、「地域の人のため、さらには疎開してきた児童たちのために3つも作っていたのでしょう」と多田孝元住職(51)は災禍の時代に思いを馳せる。

 幼少期に親元を離れて秦野で過ごし、敵機が地元横浜方面へ向かう様子を目撃したり、泣いたりした子どもたち。不安の中で温かく見守ってくれた秦野の人々を、疎開児童たちは忘れていない。東光院と命徳寺には、10年ほど前まで疎開児童が度々訪ねて来ていた。

 東光院の山田前住職は言う。「1年ほどを過ごした場所への懐かしさと、強い感謝の思いが伝わってきました」

はだの歴史博物館戦争関連の資料展示中

 太平洋戦争に関連する資料展示が、はだの歴史博物館で8月17日(日)まで行われている=写真。

 企画展「昭和の子どもたち〜くらしとあそび〜」の一角に、戦後80年に合わせて写真や軍服、学童集団疎開の資料などを展示。「秦野なりの戦争の時代があったことを知ってほしい」と博物館研究員の早田美智代さん(51)は話す。戦後、懸命に生きた子どもたちの様子も紹介する。(問)【電話】0463・87・5542

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