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戸塚区・泉区 文化

公開日:2026.10.22

戸塚区・原宿の川邊重男さんと振り返る あの日、あの時――。

  • ▶国道1号から見た当時の川邊家

    ▶国道1号から見た当時の川邊家

  • 戸塚区・原宿の川邊重男さんと振り返る あの日、あの時――。 (写真2)

  • ◀建て替え前の自宅(右端は父・利男さん)

    ◀建て替え前の自宅(右端は父・利男さん)

  • 建替え工事の新築中には「餅まき」も

    建替え工事の新築中には「餅まき」も

  • 戸塚区・原宿の川邊重男さんと振り返る あの日、あの時――。 (写真5)

かやぶき屋根を描いた青年

 戸塚区原宿在住の川邊重男さん(75)は代々、同所で暮らしてきた川邊家の20代目。生まれた当時は自宅が「かやぶき屋根」で、かつてはそういった民家も多かったが、重男さんが大学生の頃にもまだ、その姿を残していたという。

 そろそろ建て替えようか――。そんな話もあった1973年頃、一人の青年が川邊家を訪ねてきた。彼は里山の風景を描きたくて辺りを歩いていたと言い、昔ながらの雰囲気を残す川邊家が目に留まったのだとか。「しばらくここで絵を描かせてほしい」。重男さんの父・利男さんが快諾すると、青年はしばらく通って絵を描き続けたそう。

 「あまり話しかけたりはしなかったんだけど、当時まだあった柿の木の下に椅子を置いて、ずーっと絵を描いていたよ」と重男さん。しばらくして完成した絵には、その柿の木の枝も描き込まれている。

 絵が完成すると、利男さんに譲られることに。「えっ、大丈夫?詐欺だったんじゃないの?」と重男さんが聞くと、利男さんは「いや、額の代金だけくれればいいって。それだけ払ったよ」。額を開けると、絵の裏には青年の名前、住所、学歴や作品歴がしっかりと書かれ、お金のやりとりを残す領収書まで丁寧に残されていた。「なんかいろいろな経歴があったんだけど、すごい人だったのかなぁ?」

♢     ◇     ♢

 記されていた名前は「青山光佑」。絵の裏に残された画歴によると、青山さんは1938年山形市生まれで、東京芸術大学絵画科、同大大学院を修了後、各地で個展や美術展に出品。川邊家を訪れた頃は30代半ばで、大和市に住んでいたことがわかる。

 それを裏付けるように大和市の柳橋交差点に作品を設置したとわかるものが残されている。交差点脇の歩道に抽象彫刻がモニュメントとして今も飾られていて、そこには「1996.8青山光佑 大和商工会議所大和中央支部」と記されている。

 調べてみると、青山氏はその後、1975年から地元の山形大学に勤め、90年から2004年まで教授として在籍。もしかしたら、川邊家との交流も青山氏の作品観に影響があったのかもしれない。重男さんは「今はもう、この絵は当時の家の姿を残す貴重なもの。大切にしていけたら」と語った。

大黒柱の下の「守り刀」

 そんな「かやぶき屋根」の家は数百年経っていたようだが、約50年前に建て替えることに。今の住居は重男さんも細部までこだわって、設計などにも携わったという。重男さんは大学の農学科で造園を学び、まちづくりの仕事も手がけたが「家の中も、遊び心が好きなんだよね」と笑顔を見せる。

 さて、数百年の歴史のある「かやぶき屋根」の家を取り壊した際、大黒柱の下から出てきたのは一本の長い棒状のもの。重男さんが錆を落としてみると刀であるとわかった。

 かつての日本の文化として、神聖な「家」の魔除けとして刀を添える「守り刀」という風習があった。この刀はどうやらその守り刀であったらしい。

 ただ、重男さんによると「銃刀法違反で捕まっちゃうといけないから」と戸塚警察署に相談した上、県の教育委員会にも持参した。刃の長さ約60センチの脇差であるらしかったが「状態が状態なので」と美術品としての展示は見送られた。

 それでも、そうした先祖の願いにふれられたことは「心強いというか、感謝の気持ちがあるよね」と重男さん。自宅敷地に残るタブノキは樹齢420年とされ、いわば「豊臣の時代」から残る。私たちの身の回りに何気なくそこにあるものも、改めて目を向ければ、長い時間の末のものと気づけるかもしれない。

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