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公開日:2026.01.01

横浜「注目の人」インタビュー
西区在住 アニメーション映画『迷宮のしおり』の河森正治監督 自身の創作活動の原点・横浜が舞台に

  • 【プロフィール】河森正治さん(65)1960年2月20日生まれ、富山県出身。3歳の時に横浜に引っ越し、常盤台小(保土ケ谷区)、中学から慶應へ進学、慶應大工学部と学生時代を横浜で過ごす。現在は西区在住。大学在籍中に日本SFアニメ界の草分け的存在「スタジオぬえ」に所属し、メカデザイナーとして活躍。『トランスフォーマー』の主人公ロボットの初期デザインである『ダイアクロン』のカーロボットなど、数々の人気メカデザインに携わる。22歳でテレビアニメ『超時空要塞マクロス』のデザインやストーリーに携わり、『創聖のアクエリオン』などヒット作を次々と生み出しながらアニメ映画の監督やデザイナーとして長年活躍し続けている。2025大阪・関西万博ではテーマ事業プロデューサーを担った。

    【プロフィール】河森正治さん(65)1960年2月20日生まれ、富山県出身。3歳の時に横浜に引っ越し、常盤台小(保土ケ谷区)、中学から慶應へ進学、慶應大工学部と学生時代を横浜で過ごす。現在は西区在住。大学在籍中に日本SFアニメ界の草分け的存在「スタジオぬえ」に所属し、メカデザイナーとして活躍。『トランスフォーマー』の主人公ロボットの初期デザインである『ダイアクロン』のカーロボットなど、数々の人気メカデザインに携わる。22歳でテレビアニメ『超時空要塞マクロス』のデザインやストーリーに携わり、『創聖のアクエリオン』などヒット作を次々と生み出しながらアニメ映画の監督やデザイナーとして長年活躍し続けている。2025大阪・関西万博ではテーマ事業プロデューサーを担った。

  • 横浜駅地下2階南北連絡通路のオープンスペース「HAMA B2(ハマビーツー)」で2026年2月中旬まで行われている『迷宮のしおり』とのコラボレーション展示にて

    横浜駅地下2階南北連絡通路のオープンスペース「HAMA B2(ハマビーツー)」で2026年2月中旬まで行われている『迷宮のしおり』とのコラボレーション展示にて

  • フォトスポットでポーズを決める河森監督

    フォトスポットでポーズを決める河森監督

 横浜が舞台のアニメーション映画『迷宮のしおり』が2026年元日から全国で公開されている。監督を務めた河森正治(しょうじ)さん(65)は、『マクロス』シリーズや『アクエリオン』シリーズの原作などを手掛けてきた日本アニメーション界を代表する人物の一人だ。幼少期から大学時代までを横浜で過ごし、現在再び横浜に移り住んでいる河森監督に、映画や横浜への思いなどを聞いた。(取材=2025年12月12日、「ザ ロイヤルカフェ ヨコハマ モンテローザ」にて)

◇ ◇ ◇

――初の長編オリジナルアニメーション『迷宮のしおり』は舞台が横浜です。なぜ横浜を舞台にしようと思ったのですか。

「富山県で生まれ、3歳で神奈川区の大口へ。1年後に保土ケ谷区の和田町に移り、仕事を始めるまで約20年間住んでいたので、横浜への思い入れが強いというのがあります。自分が子どもの頃、東京は日本の中心だけど、横浜は世界の窓、『ゲートシティ』という意識が強かったですね。そんなゲートシティである横浜は、『迷宮のしおり』のストーリーの中で、心の異世界(スマホの異世界)へ飛び込む場所としてふさわしいと思いました。あと、ロケーション的にとても絵になる。徒歩や自転車で行動できる範囲内で、絵になるところが次々に変わる、街の中心地のすぐそばに海があるというのも魅力的でした」

――生まれた富山はどんな場所でしたか。

「越中五箇山(えっちゅうごかやま)という当時は『日本三大秘境』の一つと言われる場所。合掌造りで有名な村です。自分の住んでいたエリアには合掌造りはありませんでしたが、同じ村の中には、後に白川郷と共に世界文化遺産に認定されるような場所もありました。それだけに、横浜に来て大きなカルチャーショックを受けたんですよね。蒸気機関車、市電、バス、船などの乗り物にとても驚いて。3歳の時、大口駅の先にあった操車場で機関車を入れ替える様子をずっと見ていたら、『日が暮れても帰ってこない』と家で大騒ぎになった"行方不明事件"もありました(笑)」

――小学校の頃はどんな様子でしたか。

「当時の横浜はまだ開発が進んでいなくて、‶坂があったら全部森"みたいな感じで。放課後は雑木林の中で木登りして、基地を作るみたいなことをやっていましたね。あとは自転車に乗ってあちこち行くことも。和田町は坂だらけで、斜めをジグザグに上がってました。そんな実体験も今回の作品に盛り込まれています。横浜が坂のまちというのが、立体的に物を把握するのに役立ったといえるでしょう。木登りや坂のおかげで全体を俯瞰して見るのも習慣になりました。自宅も丘の中腹にあったので、横浜で立体感覚が養われたというのは間違いないと思います」

――中学校時代になってからはどんなことに興味がありましたか。

「車が好きでした。中学生の頃、三ツ沢に『シーサイドモーター』というカーディーラーのレストア工場に入り浸っていました。見たこともないようなスーパーカーが置いてあり、後に『聖地』と呼ばれる場所でしたが、まだ当時はスーパーカーブームが来る前で中学生が見学に来ることなんてなかったんです。何度も通っていたらお店の人がとても良くしてくれて。『新しいマセラティ(イタリアの高級スポーツカーブランド)が入ったから乗りに来るか』とか言われて、大黒ふ頭から入ってきた車に店の人と一緒に乗って店まで行くとか。車を外からだけでなく、内部構造から見せてもらえたのは、デザインなどをする上で大きかったですね」

――中高と慶應に通っていました。学生生活はどうでしたか。

「慶應は自由な校風だったのと、幸いにも受験しなくて良かったから自由な時間が多くありました。ろくに勉強もせずに、ひたすらメカの絵を描いたりできたのは良かったですね。あと、話を創るのも好きでした。物語の設定を考えたり、世界観を作るのはその頃から好きで、イメージ画を友達に見せたりしていました。イメージを描いてそこにストーリーを乗せるようなことをしていました」

海に憧れ、再び横浜へ

――今回の作品の取材がきっかけで、昨年からまたハマっ子になったそうですね。

「数年前から取材で何度もみなとみらい周辺に来ているうちに、快適で便利だなと思って、都内から西区に引っ越しました。子どもの頃住んでいた保土ケ谷区は山側の面白さがあったものの海が見えないエリアだったので、ハマっ子でありながら海側に憧れがあったんです。新横浜や羽田空港にも近いし、本当に便利です」

――横浜でお気に入りの場所は。

「みなとみらい駅の地下3階から地上につながる大エスカレーター。吹き抜け空間で4階も上から見下ろして地下鉄が走っている駅が見える場所なんて、そうそうないですよね。作品の中で深層心理的な描写が出てくるのですが、その象徴としてもふさわしい場所でした。また、アイデアを考えたり、文章を書く仕事がスタジオではできない性格なので、基本的にカフェでやっています。見晴らしの良いカフェが好きなのですが、横浜はそれに事欠かないですね。落ち着いたホテルのカフェやみなとみらい周辺の海に近いカフェもお気に入りの場所です」

――クリエイターとして見た横浜の街はどのように感じますか。

「魅力的に感じるのは、徒歩で歩いてるだけで、まちの景色や性格が変わるところです。最先端のみなとみらいエリアから雑多な場所や海から渓谷まである。最近市場(横浜中央卸売市場)があるのも知りました。そういう変化に富んでるところは魅力的です。特にみなとみらいエリアに行くと、『こんなのびのびした大都会、ちょっと他にはないよな』と思います。万博のために、京都に部屋を借りて往復していたんですが、京都にないものは横浜にあり、横浜にないものは京都にあると感じました。横浜にいると刺激が尽きないですね」

スマホはもう一人の自分

――今回の作品でスマートフォンをテーマにしようと思ったのは。

「10年ぐらい前、スマホがよく割れていたんですよね。よく置き忘れることもありました。スマホはある意味自分の分身とも言えると思います。それが割れた、置き忘れたってことは、自分の心の大事なものが割れたり、置き忘れているんじゃないかと思って。そんな連想ゲームみたいなことをいろんな人にしゃべっているうちに『もしかしたら映画にできるかな』と思いました」

――自身ではスマホをどのように使っていますか。

「スマホは本当に便利な道具として使っています。それまでの機械ってほとんど、車なら走って運ぶ、冷蔵庫なら冷やすという単一機能だったんですよね。 スマホはどんどん機能が合体し、今は通信機能にカメラ機能、インターネット機能などが含まれている。さらに、自分のアイデンティティがほとんど入ってる。検索履歴や数年前に撮った写真など、我々が忘れているようなことも記憶している。スマホの方が自分よりも自分のことを知ってるとさえ言えるのではないかと思います」

――SNSもよく使われていますね。

「Xもよく使っていますが、SNSの発信には気をつけないといけない。周りに迷惑をかけてしまうこともあるので。自分が発信した一言が世界の裏側まで届いて、不特定多数の誰かを励ますこともできれば、誰かの心を傷つけてしまうかもしれない。逆に言うと、何か発信しようがしまいが、常に誰かからバッシングされるかもしれない、見えない圧力がかかった時代になっているんだなと思っています。作品作りのミーティングを重ねるうちにそこが浮き彫りになってきて。 自分が学生時代は、何かチャレンジして失敗したとしても、せいぜい身近な人に怒られるだけ。でも今って、ちょっと何かしたら誰かに叩かれるんじゃないかと思うでしょう。逆に『いいね』を集められなかったら、存在を認めてもらえないんじゃないかみたいなところもある。本当に自分のやりたいことや得意なことを感じづらくなっているかもしれないなと。そこが気になりすぎて、心が割れて、スマホが割れるのと同調して、スマホの迷宮に閉じ込められてしまったのが今回の映画の主人公である女子高生・栞(しおり)です。若い人に限らず、全世代に共通テーマと思って描きました」

ダミー企画だった『マクロス』

――アニメを作りたいと思うようになったきっかけは。

「中学卒業後にSF作品を創作している『スタジオぬえ』を見学し、そのメンバーと知り合ったことが大きいです。当時、本当は宇宙開発をやりたくて。でも、数学と英語があまりできなかったのであきらめました。それで、現実世界では難しくても、SFのアニメーションの中ならば宇宙に行けると思うようになったんです」

――アニメを作る立場になってどのようなことを感じましたか。

「子どもの頃からオリジナリティに対するこだわりが強かったです。それは横浜の気質もあって、日本初ではなく「世界初じゃなきゃ意味がない」と思っていました。他の人がやってないこと、初めてのことをやりたいなという気持ちが強くて。それは生まれつきの性なのかもしれないですよね」

――代表作である『マクロス』はどのように生まれたのですか。

「最初は、元々は人型ロボット兵器じゃない、全く新しい主役メカを作ろうというところからスタートした企画でした。その企画が通らず、まずはダミーの企画でメーカーに気に入ってもらえたら本命の企画を売り込もうという作戦で。しかし、ダミー企画のマクロスがとても好感触で、トントン拍子で話が進んでいったので、それがメインになりました」

――『マクロス』は今でもファンが多いです。

「すごいありがたいことですし、何かに似たものをやっていたら消えていってしまったでしょう。戦闘や戦争に対して文化という別のベクトルを持ち込めたことで、見ている人の層を広げることができ、オリジナリティのあるものになったと思っています」

――作品のアイデアや着想はどこから得ていますか。

「やっぱり実体験ですね。どこでひらめくか分からないので、様々な場所に行って、刺激を受けて...。自分では『インスピレーション・ハンティング』と呼んでいます。ある作品の取材に行ってもそれについてひらめくとは限らなくて、全然違う作品のものがひらめくかもしれない。でも、ひらめいたところを核にすれば、それはオリジナルと言って良いでしょう。ドキュメンタリーやノンフィクションはヒントにしますが、そこから作るものは自分は二次創作だと思っています。一番のコアの部分は実体験からで、今回の作品も自分のスマホが割れたという実体験からスタートしています」

――今後もやってみたいことは何ですか。

「新しいメディアを作ってみたいです。二次元の映画やテレビは、スクリーンのサイズをどれだけ変えたとしても平面であることは変えられない。大阪・関西万博では、テーマ事業プロデューサーを務め、XRゴーグル使った体験を企画しましたが、現実空間と虚構の間を行ったり来たりするようなメディアを、横浜でやってみたいです」

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