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公開日:2026.03.26
「関内」「関外」名称の由来は?
境界線は吉田橋
「BASEGATE横浜関内」が3月19日に開業し、新たなまちへと歩みを進める関内・関外。本記事ではこのエリアの歴史を振り返り、「関」の内と外で分けられる名称の意味や由来を横浜市史などの資料から追う。
関門の内と外
関内・関外の境界線は、伊勢佐木町と馬車道をつなぐ吉田橋だといわれる。吉田橋は、横浜が開港した頃から1871(明治4)年まで関門としての機能があった。その関門の内側(港側)を「関内」、外側(陸側)を「関外」と呼ぶようになったのがはじまりだ。
開港場として整備された関内エリアは、横浜が開港する前、横に伸びた砂浜からなる村であり、「横浜村」と呼ばれた。幕府から開港場に選ばれると、複数の沼地が埋め立てられ、外国人居留地と商業地が整備された。
一方関外は、伊勢佐木町を中心とするエリアで大部分は江戸時代まで海だった。1667(寛文7)年に江戸の商人であった吉田勘兵衛らが大岡川と中村川に囲まれた釣鐘型の広大な入海を埋め立てて、「吉田新田」を開発。横浜が開港してからは、関内に働きに出る人や商人が集まるようになった。
外国人を守る要所
開港後の関内は、攘夷派から居留する外国人を守るため、海だけでなく陸側にも運河(堀割)を巡らせた。外部と行き来できるのは関門が置かれた限られた橋だけだった。陸路から関内に入るための正面玄関だった吉田橋は、非常に厳格な取り締まりが行われた。
横浜市史によると、吉田橋には、「菜っぱ」と記された青色の長羽織を着た番人が多数配置され、通行人に鋭い目を光らせていた。当時の庶民にとっては、この関門を通ることに不安を感じたという。刀を一本差していただけでも、調べが長引き、最終的には「預けていけ」と刀を取り上げられたエピソードも残っている。
関門そのものは役目を終えて撤廃されたが、「関内」「関外」という呼び名は今も通称として親しまれている。
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