「土木事業者・吉田寅松」59 鶴見の歴史よもやま話 鶴見出身・東洋のレセップス!? 文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略
寅松の息子たち
吉田寅松には三人の息子がいた。長男の真太郎と二男の銈次郎は、明治二十三年に慶應義塾大学に進学したが、二人とも二年で退学。明治十五年生まれの三男の勝三は、二十四年に寅松の実家である北寺尾の鶴田家を継いで鶴田勝三となった。
寅松の長男真太郎と二男銈次郎は、慶應義塾を二年で退学したが、自転車に乗っている外国人教授に憧れ、自転車乗りになっていた。
自転車乗りの仲間には、森村財閥の森村開作、鐘ヶ淵紡績の日比谷新次郎、三井財閥の中上次郎吉・三郎治兄弟、天狗煙草の岩谷鷹蔵、古川財閥の古川虎之介など、一代で財を築いた財閥の御曹司たちがいた。
三男で寅松の生家を継いだ鶴田勝三は、兄たちの影響をうけて、十三歳の時から横浜居留地のトラックで外国人たちと一緒に走り、外国人に負けない実力派の自転車乗りになっていた。
自転車は文明開化の花形
日本に自転車が渡来したのは慶応年間(一八六五〜六八)のミショー型自転車といわれている。慶応二年一月の田中久重の(『長崎日記』に自転車(三輪車)と一人乗り蒸気三輪車のスケッチがあり、明治元年には「田中久重(からくり儀右衛門)、自転車を作る」とある。
一八六九年(明治二年)一月一日の『ジャパン・パンチ』の挿絵「Ópening Of Yedo(江戸の開市)」には、ラントン型自転車を手足で漕いで颯爽と走る外国人の姿に江戸市民が驚いている様子が描かれている。
小さな前輪が一つ、大きな後輪が二つを手と足を使い体全体の力で動かして走るラントン型自転車は、平坦な道なら時速十五キロぐらいのスピードが出た。同年三月六日の世界最古の一般向け科学雑誌『サイエンティフィック・アメリカン』に「横浜居留地に住む外国人の一人は、最近自転車で横浜〜江戸間を何の支障もなく往復した」と紹介された。
明治三年頃から歌川芳虎の「東京日本橋風景」「東京往来車盡」「東京日本橋繁栄之図」や五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」、三代目広重の「江戸日本橋繁栄之図」などの錦絵にもラントン型自転車が描かれている。
明治五年九月刊行の『維新 御布告往来』(沖志楼主人著)には、「志を立て、恥を知る心を残し、自分自身の心を奮い起こし豊かな暮らしを営むために、人力車や自転車の牽夫、馬車の御夫、蒸気車、火輪船(蒸気船)の火丁や水夫、電線・電信機・電信局、郵便急脚、鉄道造営・造築、建築営繕、土木の土工などの職業について不惜身命、努力し節約倹約して貯蓄をする」ことをすすめている。
自転車は、横浜開港後に上陸した馬車や新橋・横浜間に開通したばかりの蒸気機関車と並ぶ文明開化の花形の乗物だった。明治八年ごろには貸自転車業者も現れた。
明治九年三月の「花の都新聞」には、「下谷広小路の山本と云える水茶屋にて三輪の自転車を貸しますが、広小路を一返乗廻す賃は一銭五厘だと申します」とある。
明治十年、横浜元町の石川孫右衛門が貸自転車業をはじめた。明治十年三月ごろから、東京下谷の大工野口茂吉など自転車の試作をする日本人が現れた。野口は自転車に工夫を加え、明治十一年一月に丸の内に開場したばかりの勧工場(東京府営の良質な商品を扱う共同店舗)に出品している。
三月十八日の静岡新聞には「沼津宿で自転車が流行し出して往来が危険な位」、六月一日の朝野新聞に「発句と自転車は大流行」とある。大型自転車や新案自転車などいろいろな改良型などで、自転車が大流行。明治十二年には各地に貸自転車業者も現れた。
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