八王子 コラム
公開日:2026.09.10
―連載小説・松姫 夕映えの記― 第12回 作者/前野 博
(前回からのつづき)
松姫の心はえぐり取られるような深い傷を負った。
本丸に入ると、勝頼の奥方の北条夫人が出迎えてくれた。
「お松様、さぞお疲れでしょう。ゆっくりとお休みください」
北条夫人は勝頼に嫁いで五年になり、今は十九歳であった。北条夫人は細やかな気遣いをしてもてなしてくれたが、武田軍の戦況の厳しさは絶え間なく耳に入り、松姫達は落ち着かない不安の日々を送った。
鳥居峠の戦いで武田軍は敗走したとの知らせが入った。後詰の上原城の武田勝頼率いる本隊は撤退の準備に掛かっている。伊那方面の諸城を守る武田の武将の裏切りや逃亡が続き、高遠の城近くまで織田軍五万が攻め上ってきていた。新府城内も日毎に人の数が減っていた。年寄女子どもが城を出て行き、将兵も闇に紛れて脱走を図った。
「義姉上様、躑躅ヶ崎の御聖道様から訪ねて来るようにとの使いが参りました。義兄上様のご帰還を待ってからとも思いましたが、行って参ります」
「御聖道様もお松様が来るのをお待ちなのでしょう。早い方が良いです。これからは何が起こるかわかりませんから」
二月十八日のことであった。韮崎の新府城から古府中の躑躅ヶ崎までは四里の道のりであった。城内の桃の枝にちらほら花が咲き始めていた。
「お松様、この子達も一緒にお連れ下さいませんか?」
見送りに来た北条夫人が二人の女の子を連れて来た。勝頼の四歳になる貞姫と小山田信茂の四歳になる香具姫であった。
「勝頼殿はこの貞姫を大層可愛がっております。万が一の時は、『松に貞姫を託せ、お松なら命がけで貞姫を守ってくれる』と、仰っておられました。勝頼殿は、新府城を最後の決戦場と考えています。その日が近づいているように思われます。お松様、この子達を安全な場所にお連れ下さい。お願い致します」
〈続〉
◇このコーナーでは、揺籃社(追分町)から出版された前野博著「松姫 夕映えの記」を不定期連載しています。
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