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八王子 コラム

公開日:2026.06.11

―連載小説・松姫 夕映えの記― 第9回 作者/前野 博

  • ―連載小説・松姫 夕映えの記― (写真1)

 (前回からのつづき)

 「それはどういうことでしょうか?」

 松姫の顔が急に暗くなった。

 「姉上の義母と長男の千太郎に長女の岩姫が武田の人質となっている。残念ながら命はないだろう。姉上の気持ちを思うと本当に辛くなる。どんなに悲嘆し、自分の夫を恨み、勝頼殿を憎悪するだろうか?」

 正月の新府城の宴では、木曽義昌家族も一族衆として加わり、武田家の繁栄を願っていた。千太郎は十三歳、岩姫は十七歳の美しい姫君に成長していた。躑躅ヶ崎の御聖道様の館に松姫はよく遊びに行っていた。そこは織田信忠の弟の御坊丸のほか、千太郎、岩姫のように人質に取られた名家の子ども達が集い、遊びに興じる所となっていた。御聖道様とは、信玄の次男竜芳軒信親のことである。盲目であるため政治の表舞台に出ず、出家して心穏やかな暮らしを送っていた。松姫はこの兄のことが好きであった。戦国の世の明日の命も定まらない人質の子ども達が心置きなく時を過ごしていた。

 「ああ、人質の定めとはいえ何という無惨なことなのでしょう。あんな素直で良い子達が処刑されるなど......」

 仁科信盛の兵三千は、木曽義昌を伊那方面から討つために出陣の態勢を整えた。信盛軍の士気は高まっており、高遠の城内は騒然としていた。

 「殿、いざ出陣でございます」

 郎党が階段を駆け上がって来るなり、信盛の前に跪き言った。

 「ご武運を祈ります」

 傍にいた信盛の妻のお静の方が信盛に太刀を渡した。雪に覆われた山脈からようやく日が昇り、天守の屋根瓦がまぶしく輝いていた。松姫は悲劇の始まりを感じ、心は重く苦しく揺れていた。

 武田勝頼は木曽義昌を討伐せんがために一万五千の兵を引き連れ新府城を出発し、諏訪の上原城へ入った。武田信豊が率いる先鋒隊三千が鳥居峠で、織田軍の応援を得た木曽軍と激突した。

〈続〉

◇このコーナーでは、揺籃社(追分町)から出版された前野博著「松姫 夕映えの記」を不定期連載しています。

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