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八王子 コラム

公開日:2026.07.02

―連載小説・松姫 夕映えの記― 第10回 作者/前野 博

  • ―連載小説・松姫 夕映えの記― (写真1)

 (前回からのつづき)

 伊那方面へ向かい侵入してきた織田の大軍は容易に伊那口を突破し、破竹の勢いで甲州を目指して進軍を開始した。織田の大軍に恐れをなし、二月六日には下条氏が追われ、十四日には松尾城の小笠原信嶺が裏切り、大島城の武田信廉が戦わずして逃亡した。

 疲れ切った顔をした兵士達が続々と城内に戻って来ていた。

 「どうしたのだろうか?」

 松姫は底知れぬ不安に包まれた。馬のいななき、揺れる旗指し物、兵士の発する大きなため息、重く暗い空気が漂っていた。松姫は天守の出窓からその異様な光景を見ていた。

 「殿がお戻りになられました」

 松姫はお静の方の声にただならないものを感じた。

 「兄上に何か?」

 松姫は天守の階段を急ぎ降りて、大広間に入った。大広間の中央に鎧を脱いだばかりの仁科信盛が床几に座っていた。傷は負ってはいないようだが、顔は蒼白として、がくりと首をうなだれていた。兄のこのように落胆した姿を見るのは松姫は初めてであった。

 「兄上様!」と言ったきり、松姫は次の言葉が出て来なかった。

 「お松か!」

 信盛は顔を上げ松姫を見るなり、無理矢理といった感じで背筋をぐっと伸ばし大きく息を吸った。いつもの兄ではなかった。錯綜して苦し気であった。

 「戦況は如何でしょうか?」

 「この有様だ。味方は総崩れよ。織田の大軍に恐れをなして裏切りが出るわ、戦う前に逃亡を図るわで戦にもならない。武田武士の勇気と誇りはどこへ消えてしまったのか!

 とにかく信忠の率いるのは我らの十倍以上の大軍じゃ。この高遠の城に立て籠もって戦うしか方法はあるまい。何としてでもこの城で織田軍を食い止める。戦は父上信玄公の言うが如くに、勝つために戦うのだ。織田信忠の首はもらう」〈続〉

◇このコーナーでは、揺籃社(追分町)から出版された前野博著「松姫 夕映えの記」を不定期連載しています。

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