八王子 コラム
公開日:2026.08.20
―連載小説・松姫 夕映えの記― 第11回 作者/前野 博
(前回からのつづき)
信盛は自分自身を奮い立たせるために語気を強めた。
「松も兄上様と一緒に戦います」
「待て、お松、そなたには頼みがあるのだ」
信盛が言うのと同時に静の方が二人の子どもを連れて階段を上がって来た。
「お松様!」
松姫の姿を認めると声を上げて、小さな姫君が走り寄って来た。督姫三歳であった。もう一人は嫡子の勝五郎八歳であり、父信盛が手招きして呼び寄せた。
「お松、この二人の子をお前に預けたい。是非、新府の城まで連れて行って欲しい。現状では我が軍の不利は動かし難い。この子達を安全な場所へ移して心置きなく戦い、何としてでも勝機を掴みたい。頼む、お松」
信盛が頭を下げ松姫に懇願した。松姫は信盛の覚悟をしっかりと受け止めた。
「わかりました。それで、義姉上様はお子達と一緒には行かないのですか?」
「わたしは夫を助け、最後まで戦いたいと思います。いつまでも夫と一緒にいたいのです。お松様、どうぞ子ども達をお願いします」
静の方の頬に大粒の涙が流れていた。
翌朝、夜の明けるのと同時に、松姫一行は高遠の城を後にして新府城へ向かった。晴れた日ならば美しい諏訪湖も雄大な雪の八ヶ岳連峰も展望できるのだが、今にでも雨の降りそうな空の下、寒さに震えながら一行は先を急いだ。
ようやくたどり着いた新府城は得体の知れない静けさに包まれていた。武田軍の主力は勝頼に従い、木曽義昌を討つために諏訪の上原城へ出陣していた。新府城を守る兵はどう見ても少なかった。大手門を入った右手の広場に松姫は見てはならないものを見てしまった。木曽義昌の母親、娘の岩姫、嫡子の千太郎の死体が磔にされ晒されていた。あまりにも哀れで無惨な光景であった。
〈続〉
◇このコーナーでは、揺籃社(追分町)から出版された前野博著「松姫 夕映えの記」を不定期連載しています。
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