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横須賀・三浦 コラム

公開日:2026.06.26

三郎助を追う 〜もうひとりのラストサムライ〜 第49回 文・写真 藤野浩章

  • 咸臨丸の模型(浦賀コミュニティセンター分館蔵)

    咸臨丸の模型(浦賀コミュニティセンター分館蔵)

  • 三郎助を追う 〜もうひとりのラストサムライ〜 (写真2)

「当分、日本を逃げ出していた方がよさそうだしな。伊吹颪(おろし)を避けて」

 大老となった井伊直弼は、徹底した一橋派の弾圧を展開していた。水戸藩の徳川斉昭(なりあき)と子・慶喜(よしのぶ)、福井藩の松平慶永(よしなが)(春嶽(しゅんがく))などが次々に隠居などを申し付けられ、橋本左内(さない)や吉田松陰(しょういん)などは刑死。その影響は朝廷まで広がり、実に二百人ほどに及んだという。いわゆる安政の大獄だ。

 しかしこれによって幕府が負った傷は大きく、圧倒的な人材不足に陥ったことは間違いない。遣米使節団に小栗上野介がいきなり抜擢されたのも、あるいはこうした混乱がもたらしたものだったのかもしれない。

 一方、これに選ばれなかった三郎助は憤慨する。軍艦操練所で勝を見つけて詰問した時に彼が放ったセリフが冒頭のもの。伊吹颪とは彦根藩の伊吹山からの強風で、もちろん井伊による弾圧のことだ。一橋派に近いとみられていた勝海舟は、しばらく江戸を離れていたことから難を逃れたとも言えるが、そこに遣米使節の話が出れば、直訴してでも参加しておいた方が良いというのが本音だったのではないか。

 結果的に三郎助は軍艦操練所の勤務に戻り、事実上の現場責任者として活躍する。そして居残りの教授の一人が当時24歳の榎本釜次郞(後の武揚(たけあき))だった。混乱の中でも一瞬訪れた静寂の時、2人はどんな話をしていたのだろうか。

 生まれながらにして幕府という秩序の中で生きてきた三郎助、紆余曲折を経て幕府に居場所を見つけた勝、そしてエリートキャリア官僚として幕府を支えてきた小栗。彼らには、過酷な運命が待ち受けていた。

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