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横須賀・三浦 コラム

公開日:2026.07.31

三郎助を追う 〜もうひとりのラストサムライ〜 第54回 文・写真 藤野浩章

  • 浦賀奉行所跡(横須賀市西浦賀)

    浦賀奉行所跡(横須賀市西浦賀)

  • 三郎助を追う 〜もうひとりのラストサムライ〜 (写真2)

 開国の影響はじわじわと広がり、ついに庶民の生活を直接的に苦しめ始めていた。物価が異常な高騰をみせたのだ。幕府は百姓一揆や打ちこわしを恐れて治安強化を図ったが、財政が厳しくなると「国恩に報いる」という名目で庶民に転嫁。金銭はもとよりさまざまな労働も課され、旗本屋敷の警備にまで駆り出された村もあったという。

 加えて、米価は文久年間になると一気に2、3倍に跳ね上がる。福沢諭吉は著書で「価格高騰はあるが生糸や茶などが高く売れて賃金が上がっているから問題ない」と、どこかで聞いたような理論を展開しているが、それは生産地周辺に限った話。都市部などは単なる物価の高騰に苦しめられる結果になっていた。

 病床に伏せていた三郎助は、浦賀の町の人々や行き来する商人から、その窮状をつぶさに聞いていたに違いない。自分はいったい《誰のため》に仕事をしているのか。3年の間に、彼は深く深くそのことを考え抜いたのではないだろうか。

 一方、政治も激しく揺れ動いていた。当時の幕僚たちにとって差し迫った課題は外交と国防。長く鎖国を続けていた影響か、そのジャンルの専門家がほぼいなかったのだ。その点で、老中安藤信正が退場したことは痛手だった。井伊直弼後の揺れ戻しの際も政権の舵取りを続けたのは、極めて有能だったからだという説がある。和宮降嫁を主導し、以前小栗の本欄連載でも触れたロシア軍艦対馬占領(ポサドニック号)事件では小栗と勝をうまく活用して解決に導くなど、外交にも長(た)けていたのだ。

 そんな危機的な人材不足の中、三郎助についに声がかかる。

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