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公開日:2025.08.15
庵原高子さん
「書くことが一番幸せ」
芥川賞候補だった91歳
かつて芥川賞の候補となりながらも、子育てで一度ペンを置き、現在「遅れてきた青春」を楽しむ女性作家がいる。由比ガ浜在住の作家・庵原高子さん(91)だ。今年は、戦前戦後の子ども時代をベースにした『”二の舞を演じるな”物語』(田畑書店)、初の句集『由比ヶ浜』(冬花社)を立て続けに発刊。「死ぬまで書く」と笑う庵原さんを取材した。
1934年、8人兄妹の末っ子として東京市麴町区(現・東京都千代田区)に誕生。制服や国民服に使われる羅(ら)紗(しゃ)の商人として、ゼロから成功を収めた父のおかげで、使用人が何人もいる裕福な幼少期を過ごしていた。
戦争で暗転
だが、戦況が悪化し、家族で茨城県の利根川の近くへ疎開。野菜や川魚など、食べ物には比較的困らなかったが、「真夜中でも東京の空が真っ赤になって、私の家も焼けるんだろうなと土手から見たのを覚えている」。
自宅や父の店も消失。戦後の財閥解体、農地改革で財産を失った一家は鎌倉市長谷へ移り住んだ。当時の鎌倉は、戦前の避暑地の雰囲気から一転。駅前には闇市、海岸近くにはダンスホール、米兵に連れ添う女性の姿も増えていったという。
転居により朝5時に起き、東京の白百合学園中高へ通う生活が始まった。夏目漱石に芥川龍之介、林芙美子など、横須賀線の車内で小説の世界に没頭するうち、自身も創作を始めた。
だが、高齢の父母が共に倒れ、19歳上の兄の家に預けられることに。昔ながらの「家長」の兄には「小説なんぞ書くと、今に臍(ほぞ)を噛むぞ(後悔するぞ)」ときつく言われた。「年の離れた末っ子。小説を書きたいなんて自己主張はできなかった」。大学受験も失敗。暗黒の日々だった。
光指すもペン置く
ある時、知人の誘いで「里見弴に会えるかも」という好奇心で劇団鎌倉座へ。その日は里見弴には会えなかったが、後に夫となる「光り輝くよう」な男性と運命の出会いを果たした。58年に結婚し、翌年には『降誕祭の手紙』が第40回芥川賞候補に選ばれた。
この年は該当なしだったが、長編連載を持ち、執筆業が波に乗る中で妊娠が判明。何があっても書き上げるという作家魂と「早く跡継ぎを」という姑の願いとの板挟みの中、妊娠中毒症でドクターストップがかかってしまった。お腹の子の無事も分からない状態で、なんとか書き上げたが、「最終回の出来は良くなく、周囲の期待を裏切ってしまった」。無事生まれた息子にも指導してくれていた山川方夫氏にも後ろめたさを感じた。
30年分取り戻す「今」
創作をやめ、子ども2人を育てた後、89年に慶應義塾大学の通信教育課程に入学。文学部英文学科で学んだ6年間は「遅れてきた青春時代」だった。さらに山川氏が結んだ縁にも救われた。三田文学の坂上弘編集長から執筆しないかと声がかかったのだ。
約30年の空白を埋めるように、再び執筆活動にのめり込み、11作品を出版してきた。書斎で向き合うのは、コクヨの原稿用紙からパソコン画面に変わったが、「いつもムクムクと湧いてくるものがある」と、創作意欲は尽きない。
現在は、『二の舞〜』の続編執筆に奔走中。「書くことが一番幸せなんですよね」と笑った。
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