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大磯・二宮・中井 コラム

公開日:2022.02.25

大磯歴史語り〈財閥編〉
第36回「安田善次郎【4】」文・武井久江

  • 富山にあるバス停「新安田」

 今号から江戸に上がる善次郎を語りますが、もう1歩だけ寄り道のお話をさせて下さい。大河ドラマをご覧になっていますか。実は3月の語り部で「鎌倉殿の13人」の大磯こぼれ話をしますが、そこでは語れない安田家のもう一つのルーツのお話です。大河ドラマの初回でご案内していたと思いますが、安田家の遠祖は三善清行(みよしきよゆき)という平安中期の高名な学者で、清行から九代下がった三善康信(やすのぶ)は、鎌倉幕府の枢要な役所で問注所執事として知られ、歴史の教科書でもお馴染みの人物です。そのため彼らは三善の「三」と「善」の字を大切にしていました。その後、安田善次郎の直系の先祖は、鎌倉から現在の富山市の南部にある婦中町安田のあたりに移り住み、戦国時代には安田城という平城が築かれていた所で、近年まで安田村と言ってたことから、屋号を「安田家」とし、富山城下に住むようになると、当主は代々「善次郎」を名乗り、彼も安田善次郎を名乗ることになりました。ルーツを調べると本当に面白いですね。また、大河ドラマを別のドラマとして「語り部」ではご案内します。



 それでは、ここから一気に善次郎を江戸まで運びます。千両分限者になるために、そして故郷に錦を飾るために、彼はどんなことをしたのでしょうか? ただ色々な資料を見ますが、大体1両が江戸期では現在の十万円ほどだったと考えるのはそんなに間違えではないでしょう。そうすると、千両は1億円にあたります。千両分限者とは、今で言う「億万長者」になるということですね。彼が最初に家出をしたのが16歳でした。両親の許しを得て江戸に出るまでに約4年近い年月が掛かりました。実は名前も岩次郎から一時・忠兵衛と改名した時期もあり、この頃に日本橋小舟町に銭両替兼鰹節商「広林」に奉公をします。読み・書き・算盤の能力に優れていた彼は、複雑な両替業務についての知識や技量を短時日のうちに会得し、主人や同業の銭両替商の信用を獲得していきました。この当時に近所の奉公仲間と、互いの夢を語り合った仲間が何人かいました。増田嘉兵衛・大倉喜八郎、後に語りますが、大倉財閥を形成し、その長男・喜七郎が大倉邸跡に建てたのがホテルオークラ東京で、彼は大磯が終の棲家になった島崎藤村とも関わりがあります。お話はどんどんと広がりますが、この当時の両替商は銭両替(庶民相手)、本両替(大名貸し)があり、彼の奉公先は銭両替でした。



 写真は、富山の安田のバス停です。(敬称略)

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