頼朝は非情な性格だというイメージがあるが、それだけでは源氏の頭領として人の心を掴めない。大変涙もろい一面もあったと言われている。
頼朝が伊豆で挙兵したのが1180(治承4)年8月17日。山木判官を討ったのちに、石橋山(小田原市)で平家方の大庭三郎景親の大軍と対陣した。23日、景親は三浦勢が頼朝に加勢して向かっていることを知り、到着前に決着をつけようと雨が激しく降る中、攻撃を開始した。
このとき頼朝方の佐奈田与一義忠は、頼朝に「お前が先陣して大庭、俣野等を討ち取り功名を立てよ」と命じられ、初陣に臨んだ。
与一は病み上がりで万全の体調ではなかったが、先陣を命じられて武士としてこれ以上の名誉はないと討ち死必至で郎等の陶山文三家安をはじめ、15騎を連れて平家方の前に進み出た。これを見た景親は「与一を打ち取れ」と俣野五郎景久に命じたという。
与一と俣野五郎は組み合い、上になり下になりして揉み合った。風雨の中で泥んこ、ぐっちゃぐちゃである。これに平家方の長尾新五、新六兄弟が加わり、暗闇で「上だ、いや下だ」と叫ぶうち、ついに与一は新六定景に首をかき斬られた。齢は25だった。
平家滅亡後の1188(文治4)年正月、頼朝は300の騎馬を従えて箱根権現と伊豆山権現へ二所詣に向かった。その途中、石橋山の与一などの墓前を訪れ、源氏再興の戦の先陣を切って命を落とした者たちに哀れをもよおして滂沱(ぼうだ)の涙...。涙も乾かぬうちに神仏に詣でるのはお慎みをと言われ、1190(文治6)年正月に伊豆山権現参詣の際に箱根山を経由したが、参詣後に与一等の墓を訪れた。この時も涙滂々だったそうだ。
参考文献/源平盛衰記、吾妻鏡
■佐奈田霊社(小田原市石橋420)/佐奈田与一義忠の霊を祀り、境内には与一塚(県指定史跡)がある。
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