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麻生区 コラム

公開日:2017.02.10

柿生郷土史料館タイアップ企画
柿生文化を読む
第95回 シリーズ「麻生の歴史を探る」北条氏関東支配(5)〜北条検地 前編

 戦国大名領国支配の施策は検地で、北条氏の場合、代替わり検地と称し、当主が替わるごと検地が行われたといわれますが、前項、寺家・鴨志田の様にその限りではなかったようです。麻生の場合は、天文十二年(1543)氏康の代、麻生と黒川の検地の記録があり市史資料)、それによると、麻生の場合従来の貫高が35貫300文に対し、検地増分は47貫200文。1・3倍の検地増分があったと記録され、黒川はわかりませんが、北条氏の検地は検地役人が現地に臨んで実施しています。天正四年(1576)多摩の長尾では隠田(隠し田)が摘発された記録があり、この時代、この地方は谷戸田が次々と開発されており頷けてまいります。



 この貫高とは、検地で得た田畑の面積を基礎に換算した生産高で、田の場合は一反歩(360坪)500文、畑の場合は165文だったそうで、これが年貢の基礎となるわけです。各郷村に、代官、そして定使いと称する役人を配置して執行しますが、地理に不案内で、地縁を持たぬ北条氏は村の庄屋、名主などの協力が必要で、検断と呼ぶ役人が居たようです。



 天文十九年(1550)北条氏康の行った税制改革は、田一反歩の税が段銭と呼ばれ40文。懸銭と呼ぶ畑一反歩の税が10文。宅地は50文から35文に減額。氏康の子の氏政は「百姓屋敷に年貢あるべからず」と述べたそうで、検地に苦しめられたと思えた村々は逆に農地の個人所有が保証され、田一反歩が3貫文。畑一反歩が1貫文で土地の売買が許され(市史資料)、この村の活性化を図った施策が永禄年間(1558〜1569)に起きた飢饉と疫病を救った徳政とされます。ちなみに麻生では畑の減税で木綿の栽培が始まりましたし、また今でも屋敷跡に残る禅寺丸柿の古木はこの頃のものではないでしょうか。【次回へ続く】



 参考文献:「神奈川県史」「川崎市史」



 文:小島一也(遺稿)

 

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