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公開日:2026.08.13

戦争の記憶 「命ある限り語り続ける」 中区本郷町在住の金子さん

  • 自作の地図で空襲当日の避難経路を説明する金子さん

    自作の地図で空襲当日の避難経路を説明する金子さん

 中区本郷町在住の金子光一さん(86)は5歳の時、横浜大空襲を経験した。平和の大切さを後世に伝えるため、地域の小中学校などで自身の体験を伝え始めたのは約20年前。「PTAの会長などをやっていたこともあり、母校の大鳥小学校から依頼されたんです」と振り返る。今でも年5回程度、空襲のあった5月29日前後を中心に、依頼のあった横浜市内外の学校へ出向く。趣味の落語で培った得意の話術と、「情景が浮かぶように」と当時の写真や自作の避難経路図、絵などを用いて、空襲当日の様子を伝えている。

当時5歳 1人で避難

 1945年の5月29日、朝から空襲警報が鳴る中、金子さんは近所の友達の家で遊んでいた。「警報は日常茶飯事だったが、『今日はいつもと違うよ』と促されて」。外に出るとそこら中から煙があがっていた。金子さんは思わず、目の前を逃げていく3人の大人に付いていってしまう。「ちょっと行けば家に帰れたのに、逃げなきゃと思っちゃったんでしょうね」と振り返る。

 町中が火事で熱気が立ち込める中、無我夢中で大人の後を追った。途中、ひとりで逃げる金子さんを見かねて、防火用水槽から水をかけてくれた人もいた。歩いた距離は本郷町から本牧通りを越えて、和菓子屋の喜月堂、キリン園公園、北方小学校、山手の尾根道を通って、ワシン坂病院手前の空き地(現ワシン坂公園)までおよそ2Kmほど。避難してきた人が集まっていたその空き地で、一夜を明かした。「ずっと泣きどおしでした。忘れようったって忘れられないですよ」翌日、一人また一人といなくなる中、ようやく両親に再会できたのは夕方のこと。「母が号泣して抱きしめてくれました」

 全焼した自宅周辺は一面焼け野原で、「建物が焼けてしまったため元町とつなぐトンネルが見えた」と話す。戦後で辛かったのは食糧難。「最初に覚えた英語はプリーズギブミーチョコレートだった」と笑う。

 「長生きのご褒美」というひ孫2人がいる金子さん。「皆さんの孫、ひ孫の代まで戦争のない平和をずっと続けないと。幸いにも生き延びた私は、命続く限り語り部を続けていきたい」と力を込めた。

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