保土ケ谷区 コラム
公開日:2026.01.01
「保土ケ谷区史」と歩く歴史の散歩道
第1回『はじめに』 寄稿 金子宣治
「『保土ケ谷区史』と歩く歴史の散歩道」を担当することになりました、保土ケ谷区制100周年記念誌委員(元保土ケ谷区長)の金子です。2027年10月の「保土ケ谷区制100周年」に向け、これから月に1〜2回程度「わがまち保土ケ谷」の歴史について、概ね時系列でお話しして参ります。
区長退職後、公益財団法人横浜市ふるさと歴史財団に4年間籍を置いただけで、特に郷土史の専門家などではありませんが、保土ケ谷区制70周年の折に刊行された『保土ケ谷区史』を、できるだけ皆さんの身近に感じていただきたいと考え、引用や要約など随所で活用させていただき、「わがまち保土ケ谷」の歴史をお話しして参ります。
では、本題に入りましょう。
私たちのまち「保土ケ谷」の由来については、上述の『保土ケ谷区史』では「数種の説があるが決定したものではない。(中略)保土ケ谷付近には「いとがや(井土ケ谷)」や「せとがや(瀬戸ケ谷)」の地名が残っている。共通の「がや」に謎をとくかぎがあるように思われるが今は不明としておこう。」との解説があるので、本稿は、もちろんそれを踏襲させていただきます。
ところで、その「保土ケ谷」が歴史の舞台に現れるのは、1559年の小田原北条氏の記録に「保土ケ谷」の地名が出てくるのが最初と言われています。
「星川」については、900年代初頭に久良郡「星川郷」の記述がみられ、また、「帷子」は1480年、太田道灌の歌日記に「帷子」の記述がみられます。以上から、「わがまち保土ケ谷」は、歴史への初出で言うと、星川など他の地名に遅れていましたが、1601年、幕府の正式な宿場となったことにより、将来の「東海道五十三次」(1601年は、品川をはじめ37の宿駅が定められた)の一員として、いわば”全国区”になったと言えましょう。
なお、本項掲載の写真は、昭和6年に保土ケ谷自治懇話会(後述)が作成した「保土ヶ谷区鳥瞰図」です。昭和初期の保土ケ谷のまちを概観するものとして、連載第1回目に掲載しました。
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