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鶴見区 コラム

公開日:2024.12.12

「土木事業者・吉田寅松」56 鶴見の歴史よもやま話
鶴見出身・東洋のレセップス!?
文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略

 寅松は、東京電気鉄道特許認可をめぐる激しい対立が続いていた頃、政界の重鎮となっていた元帥西郷従道に相談するため沼津の西郷別邸を訪れている。別邸のあった静岡県駿東郡静浦海岸は、富士山を眺望する白砂青松の風光明媚の地で、茶室のあった瓜島は西郷島と呼ばれている。

 富士山が好きな西郷従道は、邸宅造営予定地を求めて富士の眺望絶佳の鶴見ヶ丘を歩いたが、風趣に富んだ庭園もある目黒の大名屋敷を選んだ。

 鶴見ヶ丘には、明治四十四年に曹洞宗の大本山總持寺が移転してきた。大正三年に日本初の児童遊園地が開園した。

逆境から再起した吉田組

 明治四年に寅松は、難工事と言われた横浜の吉田新田一つ目沼地埋立事業を完遂し、土木業者としての地歩をかためた。

 幕末から薩摩藩の御用商人としての才覚もある寅松は、蓬莱町に木材や石材など建築資材を扱う店を構え、請負った工事に使う資材は直接仕入れることができた。明治三年から始まった、新橋・横浜間の鉄道建設工事では、多摩川から横浜駅(桜木町駅)までの工事を請け負った高島嘉右衛門の下請業者として初めて鉄道建設工事に従事し、お雇い外国人技師や鶴見川鉄橋架橋工事を担当した鉄道技師斎藤精一郎から鉄道技術を習得したのかもしれない。

 鉄道局長の井上勝に認められ、明治十二年には北陸本線の工事で藤田傳三郎、鹿島岩蔵、小川勝五郎らとともに井上鉄道局長特命の請負事業者に選ばれた。長浜・敦賀間の土木工事を請負ったが、工期を間違えて井上局長の逆鱗にふれ、小川勝五郎の下請人にされてしまった。横浜の埋立地の使用権や鶴見の鶴田家の財産など全財産を投じて、ようやく工事を完了させた。

 全財産を失った寅松は、心労から病床で過ごす不遇の日々を送った。その日の食事にもことかくような生活が続くなか、妻の芳子は寅松の看病、家計のやりくり、子育てをしながら、債務を整理し、業務の継続をはかることを算段した。

 妻の内助の功で再起した寅松は心機一転、明治十五年に大阪に行き、東海道線の長浜・関ヶ原間の鉄道工事を請負った。難工事だったが期間内に無事竣工させ、わずかながら利益を上げ、明治十七年には神戸に吉田組の本店を構えることができた。

 東海道線や滋賀県の長浜警察署の新築工事や県内の道路工事、琵琶湖疎水開削、長崎県佐世保軍港整備などの土木工事を請負い、すべてを確実に竣工させ、優良土木請負業者として盤石な基礎を築き、明治二十年には吉田組の本店を名古屋に移した。

 明治二十一年から東北本線の鉄道工事を請負うようになった吉田組は、明治二十二年に東京に進出し、芝区芝公園内第七号地に本店を構えた。

 明治二十一年から明治三十三年にかけては、現在のJR奥羽本線の青森・碇ヶ関間、鷹巣・秋田間、福島・山形間などの土木工事を請負った。

 明治二十四年には、群馬県の横川から長野県の軽井沢の間に位置する急こう配の碓氷峠の隧道掘削や橋梁建設などの難工事を分担した。

 明治二十五年十二月に横川・軽井沢間が開業し、明治二十六年四月一日に官営鉄道中山道線(後の信越本線)が東京(上野駅)から新潟(直江津駅)まで全線開通した。

 明治三十年には、舞鶴海軍工廠の敷地造成・軍港建設工事を請負った。硬い岩盤を掘削する危険を伴う大工事の割りに工費が低すぎ採算がとれないと、他の土木業者たちは尻込みした。吉田組の重役たちにも反対されたが、寅松は、海軍大将西郷従道の懇請も受け、「難工事なれども国家的な大事業」と、損得抜きで請負った。

 想像を絶する難工事で、多くの犠牲者を出した。傷病死者六十三人を鎮魂供養するため、寅松が発起人代表となり、明治三十二年十月二十三日、余部上村に大谷派本願寺説教所(現 真宗大谷派常盤山真宗寺)を設立し、翌年十一月には、境内に舞鶴軍港敷地造成工事犠牲者の鎮魂碑を建立し、手厚く供養した。

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