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多摩区・麻生区 社会

公開日:2023.08.04

77年間語らなかった原爆
宿河原 藤長政雄さん(88)

  • 広島原爆の体験を語る藤長さん=7月27日

    広島原爆の体験を語る藤長さん=7月27日

 宿河原に住む藤長政雄さん(88)は広島原爆で父親と姉を亡くした。当時10歳だった藤長さんは昨年まで77年間、一言も広島原爆のことを家族にすら語ることはなかった。「原爆の落ちなかった人生があったかもしれないと思うと悲しくて仕方なくなる。悔しくなるから」。それでも昨年から自身の子どもなどに広島原爆のことを話すようになった。「もう自分もいつ死ぬか分からない歳になった。自分の経験を次代の人たちに伝えなくてはいけないという思いになった」と話した。

 広島市で生まれた藤長さんは8人家族。当時10歳だった藤長さんは県内の父親の実家に疎開しており無事だった。だが、1945年8月6日午前8時15分のことは鮮明に記憶に残っている。丘の上で遊んでいた藤長さん。「空すべてがピカッと一面光った。その後、『ドカーン』という爆発音が響き渡った。光の熱さを肌でじわりと感じた」と振り返る。広島市方面を見ると、きのこ雲がもくもくと空高く立ち昇っていくのが見えた。

 藤長さんの実家も爆心地から比較的離れており、母親、兄、上の姉、弟2人は無事で自宅も被害を受けなかった。

骨すら見つからない

 父親の朝登さん(当時40歳)は造船所の役員を務めていた。空襲による火災が広がるのを防ぐため、建物を取り壊し、空き地を作る作業の責任者だった。爆心地から100メートル程度のかなり近い場所にある寺を仮事務所として、職員の人数調整などを行っていたと思われる。

 その仮事務所で働いていた人が奇跡的に生き残り会社に戻ってきた。その人は「朝登さんの『助けて』という声が聞こえた。だが、すぐに周りは火の海になり助けられなかった」と同僚の妻に話したという。その人は、2日後に亡くなった。同僚の妻がそのことを母親のアヤノさんに話したのは10年後のことだった。「気の毒過ぎて、話せなかったのよ」とアヤノさんは察していた。朝登さんが身に着けていたベルトの金具を手掛かりに周辺を探したが何も見つからなかった。朝登さんたちがいたであろう場所にあった骨を会社の人たちが拾ってきた。木の箱に入った骨をアヤノさんは会社へ受け取りにいった。そこには箱がずらりと並んでいた。その骨を藤長家の墓に入れるしかなかった。「自分が60歳くらいまで、父親の夢をよく見た。玄関を開けて当時の父親が家に戻ってくる夢」と唇をかんだ。

姉か分からない

 2番目の姉の和子さん(当時12歳)は朝から学徒動員され、大火になることを防ぐため、家屋を壊す作業を手伝っていた。爆心地から約2キロ程度にいたと思われる。近所の人が病院に和子さんらしき人がいたと教えてくれた。すぐに母親が病院に向かったが、病院の建物の外に何千人という死体と、衰弱した人が横たわっていた。和子さんを探したが1日目は見つからず。2日目の夕方、奇跡的に和子さんがアヤノさんに気が付き「お母さん」と呼んだ。和子さんはひどいやけどを負っており、アヤノさんですら、外見では和子さんであることを認識できなかったという。

人には見えない姿

 6日以降、ひどいやけどを負った人たちが藤長さんが疎開していた町にやってきた。「皮膚がなく、体の肉が飛び出ている。なんと表現したらよいのか。人には見えない、想像もできない姿。まさに地獄のような光景だった」と辛い記憶を回顧した。終戦日翌日、藤長さんは実家へ戻った。和子さんは左目がつぶれ、体の左側のやけどがひどかった。「お姉ちゃん」と呼ぶと右目で藤長さんを見た。首からわくウジを藤長さんが取り除いた。8月28日、和子さんは静かに息を引き取った。「思い出したくない記憶だ」。絞り出すように藤長さんは語った。

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