横須賀・三浦 コラム
公開日:2026.08.21
三郎助を追う 〜もうひとりのラストサムライ〜 第57回 文・写真 藤野浩章
文久3(1863)年4月、将軍として229年ぶりに上洛した家茂(いえもち)は、大きな圧力の中5月10日をもって攘夷を決行するという約束をさせられてしまう。英国に生麦事件の賠償金を支払うと約束した期限は、延期に延期を重ねた5月9日。翌日に宣言通り軍事行動に出たら立ち向かう、ということなのだろう。
同行の一橋慶喜(よしのぶ)らにとっては苦肉の一手だったが、遠く離れた江戸は大混乱となる。関東の大名に戦闘準備が命令され、浦賀では各台場に人員を強化。三郎助も蟠竜(ばんりゅう)丸に乗り込んで浦賀湾口で待機した。2人の息子は台場に配置され、これが初陣(ういじん)となった。また干鰯(ほしか)問屋などの船員も総動員され「万一の場合は斬り込みに参加する要請も行なわれた」という。
一方、江戸湾周辺の住民には避難命令が出された。浦賀でも老人や病人の疎開が命じられ、奉行所関係者の妻子も避難。一部の住民は大楠山や衣笠山に待避したり、家財道具を持ち出したりする事態になったという。
結局5月9日、ギリギリのタイミングで英国公使館に44万ドルを運び込み、危機は回避される。これは現在の価値で90億円ほど、当時の幕府年間予算の2割ほどが吹き飛ぶ計算だという。この金は秘密裏に横浜の税関や豪商から大量のメキシコ銀貨をかき集めて木箱に詰め、大八車に載せて運搬したもの。その時の運び役と警護には力士を雇ったとか。
これを独断で行ったとされる老中格・小笠原長行(ながみち)は、後に三郎助らと箱館へ向かう。一方、賠償金の支払いに強硬に反対したのが小栗上野介。勘定奉行を辞任するが、小笠原と再びタッグを組むことになる。
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