第12回「柳島」 茅ヶ崎の轍(わだち) 協力/茅ヶ崎市文化資料館
柳島村は相模川河口の東側にあり、現在の柳島一・二丁目、浜見平、柳島海岸、柳島の範囲です。『新編相模国風土記稿』には、千ノ川(松尾川)が村の東から南へ流れ、西には相模川と古相模川の二流があり、南は海と記され、島のような地形だったことわかります。
村では、水害対策に堤防を築きました。これは鎮守の柳島八幡宮の北側から西へ一段高くなっているところに名残が見られます。
また、柳島湊(みなと)には400石積みの船が3艘、それ以下の船が4艘あって、近くの村の米や麦を湊から出したとあります。相模川流路の変化で「須賀柳島合湊」は運営権をめぐり争いとなり、1691(元禄4)年に幕府の裁定で須賀村と柳島村に同等の権利が認められました。相模川を下ってきた物資はここで廻船に積み替え海路で各地へ運び、また海路で集まった物資は川舟に積み替えて、相模川をのぼりました。江戸時代を通して湊は栄えました。
柳島湊で廻船業を営んでいた藤間善五郎(1801〜83)は、江戸末期に村の名主を務め、柳庵と号し、書家、文筆家として知られています。1980年に「かながわの百人」に選ばれ、八幡宮の境内に記念碑があります。
【参考文献/茅ヶ崎市史1】
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