日本国憲法の制定過程から学ぶ ダレスを手玉に取った吉田茂 〈寄稿〉文/小川光夫 No.61
旧吉田邸の玄関に入ると応接室として使用された洋間があり、その奥の壁に向って外国要人との記念写真がガラスケースに立て掛けてあった。その中にジョン・フォスター・ダレス長官と並んで誇らしげな吉田茂との記念写真があった。当初ダレスはアメリカ大統領トルーマンの命により大使として、対日講和条約をまとめるために、続いて日本の再軍備を求めるために日本にやって来た。
予てから独立国家を念願していた吉田は、対日講和に飛びついた。しかし再軍備については経済力がないといって断った。諦めのつかないダレスに対して、吉田はマッカーサー元帥を仲介させて見事にダレスの要求を払い除けた。ワンマンといわれ、他の政治家達やマスコミからも傲岸で不遜な態度は嫌われたが、剛直であるところは現在の政治家とはひと味異なる。けちん坊ではあるが裏金のような金銭は受け取らない。お金を貰ったからといって黙っている人ではないからやる人もいない。共産主義は嫌いだけれど内に秘め、民政局のニューディーラーと呼ばれるホイットニーやケーディスとは一線を引いてマッカーサー元帥と仲良くした。「英語をしゃべられない政治家はだめだ」、「一度もマッカーサー元帥と会ったことのない奴がとやかく言うのは間違いだ」と吉田はいう。彼の著書『大磯随想』では、政治家はみな貧困で、しかもあてにならないと述べているが、あまりにも政権を握ることに執念を燃やしたため、白洲次郎のような側近でさえも吉田の前から去っていった。それでも戦後の政治家の中では吉田を超える者はいないという。
1980年代に総評太田薫がある対談で吉田茂を評してこう述べている。「いま生きている政治家で吉田茂に匹敵する人はいない。いや、あの人の10%のよさを持っている政治家もいないよ。吉田さんは、いまの時代ならば日米安保は結ばなかったと私は思うね。現在の日本に吉田さんが生きていて政治をしていれば、世界第2の経済大国らしい海外協力をするのではないか。レーガンと会ってにこにこしたりはしなかった。バカヤローといって対決することもできただろう。あの人は頑固だったわけではない。徹しきっていたんだよ。頑固だけで偉くなれるようなら田舎のじいさんはみんな偉くなっているよ。吉田さんの場合には信念と包容力があり、だからこそ、戦後処理をあれだけみごとに乗り越えることが出来たんだと思う。生前はワンマンともいわれたけれど、あれは周囲の人間が落ちていっただけだよ。吉田茂が死んでからだね、日本の政治が金権まみれになったのは。池田、佐藤、田中…と、くだるにしたがって日本の政治家はだんだん質が悪くなっていったんだね」
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