明治150年記念連載 大磯歴史語り 第39回「吉田茂【6】」文・武井久江
皆様は、24日に放送されたテレビ東京開局55周年記念「アメリカに負けなかった男 〜バカヤロー総理 吉田茂〜」をご覧になりましたか? 前回(第38回)の内容から約20年後からが、このドラマのスタートでした。ただ、バカヤローのタイトルは少し違うかと思います。吉田茂は、バカヤローで表される人ではなく、平和を望んでいた人だからです。パリ講和会議の後、天津総領事を拝命、田中義一内閣の外務次官に就任し、駐イタリア大使に転任。帰国後、斎藤実内閣から打診されたのは、駐米大使でした。外交官としては栄光のポストのはずですが、内田康哉外相は軍部寄りだったことから吉田が嫌ったため辞退しました。辞退後は、約3年間待命(命令待ち)となってしまいました。
その間に起きたのが、昭和11年(1936年)の二・二六事件です。広田弘毅内閣の外務大臣候補となりましたが、軍部に反対された外相の見返りが駐イギリス大使でした。この事を後に吉田自身が「運命の岐れ路だった」と書き残しているのは、後に広田が総理当時の戦争責任を問われて極東裁判(東京裁判)で死刑を言い渡された事からで、この時に吉田外相が実現していたら、戦後の吉田総理は無かったのです。
昭和14年に吉田は外務省を依願辞職しました。日米開戦に突き進もうという状況下で開戦回避の工作を続けていることで、憲兵隊の監視が就くようになり、軍部の暗号名が放送でも言っていましたように「ヨハンセングループ」〜吉田戦争反対の意味です。その間の昭和16年(1941年)5月、妻の雪子が乳癌と判明、その年の10月7日に51歳の若さで亡くなりました。妻・雪子の話はあまり聞きませんが、感受性が豊かで、芸術的な方で、敬虔なクリスチャンで、大磯の澤田美喜(彼女も外交官夫人です)との友好もありました。その後、後妻としてこりんを推薦したのは娘の和子でした。これから政界に出ていく彼を支えるのには、彼女の気配りが必要でした。そして彼は戦争を回避し、平和的に独立させるために突き進みます。(敬称略)
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