青葉区 コラム
公開日:2026.06.04
寄稿連載Vol.54 大山街道を行く 文 横溝潔(郷土史家)
先に紹介した郷土史家の戸倉英太郎氏(1882-1966)は、医薬神社の前身であった東光寺について「谷本川の渡頭」を『郷土よこはま』に発表している。今回はこれについて紹介する。
その前に戸倉氏が青葉区を含む横浜北部を調査研究し『さつき叢書』として7冊あまりの著作を遺されている経緯に触れてみる。戸倉氏は九州の出身で教員の傍ら歴史研究をされ、当時は横浜市鶴見区で事業をされていた。横浜の文化人との交流の中、農村地帯で郷土史研究が未だ進んでいない横浜北部の研究を勧められたという。ただ、当時の鶴見から横浜北部へ通うのは大変だった。その戸倉氏に支援の手を差し伸べたのは、上谷本の祥泉院の竹田円徳方丈だった。竹田氏は戸倉氏とは面識があり、戸倉氏は昭和32年の晩秋から同34年の6月頃まで祥泉院に仮寓し、調査研究と執筆に取り組んだという。
「谷本川の渡頭」から見てみたい。武蔵・相模の両風土記稿から7か寺の東光寺をあげ、宗旨は真言宗・臨済宗・曹洞宗などである。本尊はすべて薬師如来。東光寺は川の近くや峠などの交通の要所に存在した。この谷本川の渡頭に東光寺のあることは、交通の要所であったと推測される。いずれにせよそこに住する人のために、また道行く人のために救いの手を差し伸べたのであろう。また、市ケ尾は古文書に「市郷」とあり昔市が開かれており、四方から人が集まり物資の集散に便利な地であり道路河川の便が良い。一般に「市」は地方豪族の存在が見られるという。古官道(古東海道)は、後世に矢倉澤往還(大山街道)と言われた。古官道があり渡頭があって便利な地点であったことから後世東岸に市が開かれ、西の丘に東光寺が建立された。だが、その間に官道はすたれて矢倉澤往還(相州街道)へと変わったと推考されている。
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