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公開日:2025.08.14
戦後80年
「本当に暑い日だった」
町田在住 元少年兵の記憶
「もう負けることは分かっていた」。1945年、現在の厚木基地周辺の航空隊・兵舎にいた15歳の少年兵は、日々激しくなる空襲と、沈黙する日本の戦闘機に、国の行く末を悟っていた。それから80年。町田市内在住の佐藤正明さん(95)が、戦争の記憶と、平和への強い願いを語った。
神奈川県藤沢市生まれ。「貧乏だったから。進学もできない。三男坊なんか財産もらえないし、百姓になったってしょうがない」と佐藤さんは14歳の時、海軍の少年兵に志願した。飛行機を見て、「かっこいいなと思っていたね」と憧れ、パイロットになることを夢見たが叶わず、整備兵としての道を歩むことになる。
長崎県の海兵団に入団し、学問と訓練に明け暮れた。午前中は物理、化学、数学、航空学といった座学。午後はカッター(端艇)をこぐ訓練や、小銃や手榴弾の扱いといった過酷な軍事教練が待っていた。「子どもって怖いですよ。武器を持たせるとちゃんとやれますから」と当時を振り返る。
約1年間の訓練の後、故郷に近い現在の厚木基地周辺の航空隊へ転属となる。兵役中の記憶で最もつらかったと語るのが、上官からの理不尽な体罰だ。「軍隊の一番悪いのはそれだと思います。上官が下のものをいじめる」。軍人精神注入棒と呼ばれる樫の木の棒で、臀部を20発も打たれた時は「お尻から血が出て歩けない。だからベッドに寝転んで。3日間ぐらい動けなかった」と当時のことを語る。
「もう分かっていた」
そんな状況の中、1945年に入ると、日本の敗色は誰の目にも明らかだったという。「もう負けることは分かっていた」が、口には絶対に出せなかった。敵の爆撃機が上空を悠々と飛び、日本の戦闘機が迎撃に上がることはなくなった。空は完全に米軍に支配され、時には「アメリカのパイロットが見えるくらい」の低空で戦闘機に狙われる。自分たちの飛行機は、本土決戦の「水際作戦」のために温存されていたという。
いつ空襲で命を落とすか分からない恐怖と、本土決戦に向けた異様な緊張感の中、少年兵たちは日々を過ごしていた。
そんな中、同年8月15日正午、その日は「もう本当に暑い日だった」。突然の命令で兵舎に整列させられた佐藤さんたちは、これから何が起きるのか固唾をのんで見守っていたという。そして、ラジオから流れてきたのは、それまで聞いたことがなかった昭和天皇の声だった。独特の抑揚で語られる内容は当時理解できなかったが、「でも上官たちが皆泣いていたので、『やはり日本は負けたんだ』と分かった」。佐藤さん、15歳の夏だった。
加害の立場でも
戦後、佐藤さんは日本の「被害」だけでなく、「加害」の立場からも戦争を考えることになる。フィリピンを訪れた際、兄がこの地で戦死した話をすると、現地の知人からこう返された。「私も親戚を2人殺されました」。日本軍によるものと分かった。「わが国は何とひどい加害者だったことか」と、その負の事実を知ることになったという。
過酷な時代を経験した佐藤さんが、次世代に最も伝えたいことは「本当の平和を求めてほしい。戦争には勝つ人も負ける人もいない。みんな両方とも貧しくなる」。かつての少年兵の願いだ。
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