町田 社会
公開日:2026.08.13
相原に2つの通信施設跡 戦後は「平和利用の存在へ」
日中戦争から太平洋戦争期、町田市内の山あいに国内外をつなぐ通信施設が作られた。相原町にあった「多摩送信所」と「相原電話中継所」。いずれも戦争時に使用されていた。
大学内に残る送信所跡
相原町の法政大学多摩キャンパス内に「多摩送信所跡」の碑がある。第二次世界大戦末期の1944年、本土空襲に備え軍部などの要請で国際電気通信(現KDDI)が設置した送信所の跡地だ。三方を山に囲まれた地形を生かした隠蔽式の施設で、NHKの海外向け放送や南方の陸海軍向け通信に使われていたとみられる。
大学史や学術資源の展示・研究を行う法政大学HOSEIミュージアム 准教授の北口由望さんによると、45年8月10日から15日にかけて、日本政府のポツダム宣言受諾を伝える海外放送が同送信所から行われた可能性が高いという。
ポツダム宣言は、日本に無条件降伏を求めた連合国側の共同宣言であり、その受諾表明は太平洋戦争の終結を告げる歴史的な発信だった。直接発信を示す一次資料は現存しないが、当時の軍用アンテナが使われなかったとみられる点や放送局側の記録などを考え合わせると、可能性が高いとされる。
跡地は76年から85年の発掘調査でアンテナ基礎などの遺構が確認され、88年に記念碑が建てられた。現在、記念碑とアンテナの木柱台石はキャンパス内に保存されており、一般の人も自由に見学することができる。
満州までつないだ中継所
相原町、現在の根岸バス停(以前は「相原中継所」バス停と呼ばれた)付近に、かつて東京と旧満州の新京(現在の長春)を結んだ長距離電話回線の中継施設「相原電話中継所」があった。地域の歴史を研究する郷土史家の豊島直樹さんに話を聞いた。
中継所は37年着工、翌年末に完成。東京・中野から名古屋、奉天(現在の瀋陽)を経て新京まで約3千キロにおよぶ回線の一区間を担った。
採用されたのは、当時の逓信省工務局技師であった松前重義氏(のちの東海大学設立者)と篠原登氏の2人が開発した「無装荷ケーブル」による搬送方式。複数回線を同時に扱えるという当時としては画期的な技術で、世界最先端を切り開こうとする若い技術者の情熱が実用化を後押しし、34年に市外電話回線網の通信方式として採用された。
もともとは大陸の拠点との通信を確保するために建設された国策施設だったが、戦後は日本電信電話公社に移管され、市外電話用として平時の暮らしを支える存在に転じたという。64年の東京五輪では回線の一部が放送用に転用され、相模湖のカヌー競技を伝える中継の役割も担った。
そして、66年に相原電話中継所はその役目を終えることになったが、豊島さんは、「戦争のために生まれたものが、戦後は平和利用の存在へと転じた点に意義があるのではないか」と語っている。
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