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東京大学三崎臨海実験所異聞〜団夫妻が残したもの〜 文・日下部順治その5 団ジーンの生涯【2】

掲載号:2017年12月1日号

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 昭和12(1937)年、新婚旅行を終えた団勝磨・ジーン夫妻は日本へ入国し、横須賀市の住まいが用意できるまで、一時、葉山町にある団一家の別荘にとどまります。そのあと、長井の自宅へ落ち着き、東大実験所での研究生活がスタート。ジーンは助手の肩書きでした。

 しかし、2人の研究の時間は、永くは続きませんでした。日支事変など時局の悪化が進み、日本は戦雲の中へ入り込んで行きますが、この時期、彼女は出産と子育てに傾注することになるのでした。2人の間には、昭和13(1938)年に長男、14(1939)年に長女、15(1940)年に次女、17(1942)年に次男、18(1943)年に三女と、5人の子どもが誕生します。

 この間、まさに戦中の時代でした。三浦半島における警戒は厳しく、市民の目も大半は同じものがあり、日米開戦の前から特高(特別高等警察)が付く様になりました。しかし、ジーンは気にすることなく、芝生に寝転がって特高とおしゃべりしたりと、「のんきさ」があったのです。(ちなみにジーンのコトバを借りれば、当時、三浦半島に居た日本国籍でない者は、1人の韓国人と、彼女の2人だけだったと言っています)。

 その後、戦局は、昭和16(1941)年12月に日米開戦、昭和17(1942)年4月にはジミー・ドーリットル中佐の指揮による日本本土に対する初めての爆撃がありました。

 状況の悪化を受けて、ジーンは疎開を決意します。「箱根はどうか」とすすめる人があり、下の子ども2人(次男・三女)と昭和19(1944)年、箱根仙石原の田舎家へ。勝磨と上の3人の子どもたち(長男・長女・次女)は長井に残ることになりますが、その時、次男はまだ2歳、三女は1歳でした。

 雪の中、幼子を励まし、両手に荷物を持ち、傘も差せず山を登る姿は、「戦争の避難民の様だった」と途中見送った近親者が述懐しています。

 箱根での疎開生活は、食料難であったこと、地元の人たちと一緒に勤労奉仕にかり出されたことなどもあって、戦争終結までのジーンの人生で最もつらい時期だったといえるでしょう。

 実は日本に来る前から、「いざとなれば牢屋へ入る」という覚悟ができていたジーンでしたが、のちにこの時について、「私はこれには参った」と話していることからも分かります。

 また、あとで述べますが、千葉県館山での彼女の急死の遠因は、この時代の不健康な生活にあったものと推測できます。(彼女は喘息を発症しており、これに起因した循環不全によるものでした)。

(つづく)
 

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