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公開日:2026.08.14
被爆者が問う「平和とは」 西俣野在住・白川義子さん 戦後81年、逆らえない天命
「昔だったら話したくなかった。思い出すのが嫌だから。強烈だったから」――。広島に原爆が投下された日、当時2歳だった白川義子さん(西俣野在住・83)は直前まで爆心地の近くで暮らしていた。平和を叶えようと、戦後81年を迎えようとする今、ようやく重い口を開いた。
「あの時移動していなければ、私はここにいない」。1945年7月、家族で旅館を営んでいた竹屋町から井口の仮屋に疎開した。朝8時過ぎ、机で朝食を食べていた時だった。突如として訪れた爆音と光、衝撃で窓ガラスが吹き飛び、右目上のまぶたに刺さった。一命は取り留めたものの、被爆で負傷した人々が仮屋の2階に次々と上がり、床に横たわった。与えられる薬などない中で、水を与えたり、食べ物を渡したりして、母や叔母が看病した。その時に感じた「フィルムを燃したような匂い」を今も覚えている。
大正橋付近の交番に勤務していた父は原爆投下時、鉄筋コンクリートでできた建物の中でスチールの机に潜りこみ、熱や光の影響を避けた。数分後に目の当たりにしたのは、肉が垂れ下がり、眼球が飛び出た人々が川辺を歩いていく地獄絵図。意識がないようで階段をうまく降りられず、次から次へと川に落ち、重なるように流れていった。
「人は目が飛び出ても死ねない。父が一度だけ、私に話してくれた」
友の死
広島平和記念公園にある「原爆の子の像」のモデルで、被爆の10年後に白血病で亡くなった佐々木禎子さんとは、小学校の同級生で遊び仲間だった。「別のクラスだった佐々木さん含め10人ほどでよく山に登ったり、イチジクの実を摘みに行ったりした」。元気に遊んでいた姿から一変、突然体が悪くなって寝込むようになり、外に出られない状態に。「彼女の容体を知らされてからは早かった」
月日が流れ、訃報に接した。「また遊ぼうね」という、あの日の約束が叶うことはなかった。
消えない被害
中学、高校と過ごす中で、原爆のこと、被爆したことを意識的に胸の奥にしまい込んでいた。だが大人になるにつれ、周囲の人々が自分について話す差別的な言葉が耳に入るように。「『被爆者は子どもができない』とか、私に直接聞こえないよう、ひそひそと」
就職先の会社で異動があり、21歳の時に池袋へ移った。故郷の広島を離れる時も、「逃げるには今しかない」と喜びを感じた。現在の広島を見て「この80年で大いに復興した」と感心しつつも、「丸焼けになった景色を見てしまっているからか、やっぱり好きにはなれない」とうつむく。
生きるしか
平和について学び始めたことと、年を重ね芽生えた次世代へ伝えなければいけないという正義感が、「話さないと」という気持ちにさせた。「世の中を平和にするにはどうしたらいいかを勉強して、考えるたびに虚しくて腹が立つ」。政治的情勢や変えられない世界の流れが、理想とする平和を遠ざける。
「昔なら戦争にならないように勉強しろと言っていたかもしれない。でも今はもう、なるようにしかならないんだと。時の流れには逆らえず、それでも生きていくしかない、としか言えない」と未来の世界平和を憂う。
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