平成11年(1999)
ベルマーレ親会社のフジタが6月にクラブ経営の撤退を表明、地元政財界やサポーターらの存続運動が広がり、地元資本を中心とした新会社・湘南ベルマーレが発足した。統一地方選では元ベルマーレの森正明氏が県議初当選。市長選は無風だった。市内では、太古の湯・グリーンサウナが2月に温泉を掘り当てた。オリンピックシティ湘南(現在のOSC湘南シティ)が4月に開店した。
平成12年(2000)
2000年代初日の元日、市役所に73組が婚姻届けを提出した。平成元年着工の平塚新港が7月に一部オープン。平塚市の特例市への移行が12月に閣議決定した。シドニー五輪では、東海大学の井上康生選手が柔道100kg級で金メダル。女子ソフトボールで平塚商業出身の小林良美さん・吉野弘美さんが銀メダルを獲得した。新生ベルマーレはホームタウンを7市3町に拡大。平塚に居を構えた戦前のベストセラー作家を偲ぶ「村井弦斎まつり」が初開催された。
平成13年(2001)
県六市競輪組合が3月解散し、競輪事業から完全撤退。同組合が競輪場所有市に肩代わり経費を負担することで合意した。しかし鎌倉市とは肩代わり補償を巡って交渉が泥沼化。横浜地裁が平成22年、鎌倉市に約1億5百万円の支払いを命じる判決を下した。駅前では平塚創業の老舗「十字屋」が閉店、大塚家具平塚店も12月に閉店し、駅前の空洞化が危惧された。
平成14年(2002)
全国で平成の大合併が進む中、3市3町(平塚・藤沢・茅ヶ崎・寒川・大磯・二宮)の湘南市構想について、各自治体の首長が1月に湘南市研究会を発足、吉野市長が会長に就任した。サッカー日韓W杯でナイジェリア代表が市内でキャンプ。湘南ベルマーレとの親善試合は1万5千人が詰めかけた。市制70周年で記念事業が展開された。平成8年からのヘッドランド工事が実を結び、平塚海岸は昭和30年代以来の海水浴場が開設された。市内に本社のあったダイクマをヤマダ電機が買収。
平成15年(2003)
4月の市長選で大藏律子氏が当選、平塚初の女性市長が誕生した。湘南市構想は白紙に。3月には小田原厚木道路の平塚PAが開設、田村にはドン・キホーテが開店した。4月には杏雲堂病院が閉鎖の意向を表明、地域の存続運動が起こった。「湘南めぐみが丘」が7月まちびらき。ラスカが12月にエキスト湘南平塚をオープンした。ひらつか市民活動センターは5月開所。西八幡の平塚第2地方合同庁舎建設工事現場から危険物の混入したガラス瓶が発見。翌年整地され駐車場に。市はミス七夕を湘南ひらつか織り姫に改称すると発表、未婚要件が撤廃された。
平成16年(2004)
市は4月、横浜ゴム平塚製造所敷地内の明治期の洋館について贈与契約を同社と結び、八幡山公園に移築・保存する方針を決めた。資源再生物中間処理施設リサイクルプラザが4月開所。ひらつかアリーナは8月完成し、築49年の見附台体育館が9月に閉館した。アテネ五輪は東海大の塚田真希選手が柔道で金メダル。湘南ベルマーレは4月の株主総会で真壁潔常務が社長に昇格した。
平成17年(2005)
平成15年に解体された紅谷町の旧銀行跡地を買い上げ、市が4月にまちかど広場を開設した。湘南よさこい祭りが駅前で5月に初開催。七夕まつりは4日間に短縮。湘南新道の一部区間が10月に開通し、湘南銀河大橋と国道129号がつながった。
平成18年(2006)
馬入ふれあい公園内サッカー場が3月完成、日本サッカー協会の助成金を活用し、市が天然芝2面と人工芝1面のグラウンドを整備した。岩手県花巻市と友好都市提携を4月調印。平塚市自治基本条例が10月施行した。伊豆にあった天城山荘やキャンプ場など市所有施設を伊豆市へ譲渡。市内人口が26万人に達した。
平成19年(2007)
日産車体が2月、第1地区工場閉鎖の方針を発表。同社と市は跡地利用について協議を開始、10月に基本方針をまとめた。市長選は現職の大藏律子氏が40代新人2氏を制して再選。湘南国際マラソンが初開催、1万人超のランナーが参加した。
平成20年(2008)
市は7月、新庁舎建設基本構想案を策定、国の税務署との一体整備する方針を示した。県立高校改革で、神田高と五領ヶ台高が平塚湘風高、大原高が中高一貫の平塚中等教育学校へ再編されることが決定した。平塚発祥の老舗百貨店の長崎屋が9月に閉店、同社は前年にドン・キホーテの子会社になっていた。
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