
2016年の新春企画として、昨年7月に50年間の高校野球指導を勇退し、球史に輝かしい功績を残した横浜高校前監督の渡辺元智さん(71)=松田町出身に話を聴いた。
―2014年7月28日に退任してから、どのように過ごしていますか
講演で全国を回っています。青少年の健全育成や企業の人材育成など様々です。自分の経験が生きる分野だと思うのでこれからもやっていきたい仕事です。
―松田での思い出は
母方の祖父が松田駅の駅長をしていました。私は昭和19年に国鉄宿舎で生まれて、小学4年生まで松田町で過ごしました。御殿場線を「ヤマ線」といっていた頃です。松田山や酒匂川、蒸気機関車が故郷の風景です。アユやヤマメ、水門に入ればウナギもいました。稲刈りの後のデコボコの田んぼで野球もしました。神山にはよく砂鉄を取りに行きましたよ。抜群の環境でした。
―その後、人生の恩人と出会ったそうですね
5年生で平塚の花水小へ転校しました。放課後に先生方と遊ぶのが日課でいつもキャッチボールをしてくれた先生です。私の野球の原点であり恩人です。
―12月の小田原での講演では「恩人の大切さ」を説いていました
最近は恩人と出会う機会が少なくなったのではないか。謝恩会がいい例ですね。先生方への感謝の会ですがどうも「父さん母さんありがとう」になっている。父と母は特別な人であり、恩人ではない。恩を受けた人、自分を育ててくれた人。そういう人を家の外に作ることが大切ではないか。
―「父の威厳と母の優しさ」との言葉もありました
昔は長兄制度があり一家の柱である父には威厳があった。それを見守る母親には優しさがあった。戦時中に特攻隊が出撃する時は「お母さんありがとう」と言って突っ込んだという。
―「人生の勝利者に」という言葉もありました
野球であれば、「勝つ」という姿勢の中に生きる要素が詰まっている。ピンチとチャンスで力を発揮できる人は、絶え間ない厳しい練習をしている。頭を使い、未来志向であり、相手を研究する探究心もある。野球の9イニングは人生の縮図そのものであると思います。
―一昨年に甲子園へ出場したお孫さんにはどう接してきましたか
中学生までは「一緒にやってもらいたい」という意欲がある時に必ず付き合うようにしていた。今日は忙しい、疲れている、では健全な精神ができない。親は大変です。我慢しなければならない。(家庭の事情で)生まれた時から「お父さん」と呼ばれていました。だから息子のように育てた。孫と甲子園へ行けたのは最高の思い出でした。
―松田町の子どもたちから質問を預かってきました。「どうすれば野球が上手になりますか」
体をいっぱい動かして遊ぶこと。いいフォームのマネではなく小学生のうちは身体を動かして遊ぶ。そうすれば自然な体の動きが分かり、理にかなった動きを覚える。フォームは体が大きくなってからでいい。指導者のみなさんには、小学生のうちは正しいことを教えるよりも遊びの動きをよく理解してあげてほしい。
―「好きなプロ野球選手はだれですか」
一生懸命やる選手です。自分の意思で一生懸命やっている姿に感銘を受けます。自分が送り出した選手では筒香(DeNA)がその典型たるものでしょう。
―「監督をしていて辞めたいと思ったことは」
それは何度もあります。松坂(ソフトバンク)が2年生で優勝候補として挑んだ夏に敗退した時(1997年)、涌井(千葉ロッテ)の頃(2004年)に脳梗塞を患ったときもですね。
―「息抜きには何をしていましたか」
正月は毎年、家族と旅行へ行きます。シーズン中は授業がない日を見つけてゴルフへ行ったり、長いお付き合いしている箱根湯本の宿にもよく行きます。
―今後への思いを
夢や目標があり、その過程で困難にぶつかった時に的確な指導が必要になる。小中学生を中心とした子どもたちの可能性を伸ばすためにも、青少年育成に全力を注ぎたいと考えています。
※取材協力…松田町少年野球育成会松田キャッスルズ
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