鶴見区 コラム
公開日:2026.09.24
「土木事業者・吉田寅松」73 鶴見の歴史よもやま話 鶴見出身・東洋のレセップス!? 文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略
賛辞「東洋のレセップス」
明治八年自費を以て神奈川県橘樹郡西寺尾村道路を改築して銀杯の賞を受けたのをはじめ、学校、病院、道路、橋梁、官庁公舎、博愛慈善事業、公共事業、神社仏閣の天災地変に対し、金品労力を寄付したるもの、ほとんど数えきれず、金杯、木杯、賞状および金員を受けたること前後五十余回に及ぶも、その一端を知るだけである。
現時談、「ひとたび土木の事に及べば、必ず吉田組を語らぬものはない。もし、吉田寅松、君をして欧米の天地にあったならば、思うに、その功つとに東洋のレセップスたる賞賛の辞を得るのみならず、その地狭の開鑿の如きも掌で回すようなものではないか」
寺子屋師匠「金井良安碑」建立
二十数年前、鶴見歴史の会は、馬場の建功寺十五世・枡野宏道和尚が明治二十七年から昭和五年まで四十一年間書きつづけた山内日記『驢事馬事』の解読作業を委託された。私も先輩方の指導を受けながら、日記の解読作業に参加した。
『驢事馬事』に東京芝公園の「吉田寅松」があったことを思い出した。コロナ禍で中止した「寺子屋あらかると」受講者に吉田寅松についてのコラムを届けたいと考え、あらためて『驢事馬事』を読み返した。
明治三十年二月二十四日(水曜日)には、「東京芝公園八番地吉田寅松氏より明廿五日午後、金井藤太先代故良安回向料として地所寄附したく、相談のため出頭申ことの端書来れり」とある。翌二十五日「午後、駒岡青木与三郎、東京芝公園吉田寅松氏の代として来る、但し吉田氏より当寺へ地所寄附の件なり、書類に不整理の廉ありて一応持帰りぬ」と記され、二十七日には「青木与三郎より吉田寅松寄附地に関する書類来る」とつづき、四月十二日には「前八時より川嵜登記所へ出向き吉田寅松氏より寄附に係る地所の登記を済す」と記録されていた。
東京芝公園の吉田寅松氏が金井藤太の先代・故金井良安の回向料として地所を寄附したい旨を伝え、翌日には吉田寅松の代理として駒岡の青木与三郎が建功寺を訪れ、寄付の手続きを進めていたことがわかる。
三月二十三日には、旭村役場から金井良安氏の建碑の件について、建功寺十世虚堂和尚の姓氏についての問い合わせがあり、五月六日午後には、旭村の横溝村長が金井良安居士の建碑の件で建功寺を訪れている。鶴見歴史の会に参加し始めた頃、郷土史跡散策に参加し、北寺尾の金井家を訪れ、庭先に寺子屋師匠「金井良安の碑」があったことを思い出した。
吉田寅松は、建功寺の寺子屋師匠金井良安の教え子であった。
金井良安は、文化三年(一八〇六)に武蔵国橘樹郡旭村北寺尾の代々名主を勤める金井五左衛門の第三子として生まれた。幼名は虎次郎。質朴で思いやりがあり、己を欺かず勉学を好む性格で、建功寺第十四世虚堂和尚の寺子屋で学んだ。父の死後は家業を継ぎ五左衛門を襲名し、名主としての務めを果たしながら、建功寺の寺子屋で近郷近在から通う子弟二百余人を教え、明治二十三年(一八九〇)七月二十六日に八十五年で生涯を閉じ、建功寺の金井家の墓地に眠る。
功成り名を遂げた寅松は、寺子屋師匠・金井良安のもとで学んだ筆子仲間の賛同もえて、明治二十九年十月、師の生家前に「金井良安碑」を建立し、供養料として建功寺に土地を寄進した。
碑文を記した箕輪三郎は、天保十一年に現在の横浜市中区北方村に生まれ、明治六年から学区取締り・北方村戸長を命じられ、明治六年から吉田町の戸長を兼務した。明治十一年から久良岐郡長、明治十六年から明治十九年まで横浜区長、明治十九年から明治三十三年まで再び久良岐郡長を務めた。久良岐郡は明治十一年に発足した行政区域で、現在の横浜市中区・西区・磯子区・金沢区・南区の大部分と港南区の一部を含んでいた。
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