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鶴見区 コラム

公開日:2026.10.29

「土木事業者・吉田寅松」74 鶴見の歴史よもやま話 鶴見出身・東洋のレセップス!? 文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略

  • 吉田寅松が建てた北寺尾の金井良案碑

    吉田寅松が建てた北寺尾の金井良案碑

  • 日光駅前に立つ日光山益莫碑が吉田寅松の功績を伝える

    日光駅前に立つ日光山益莫碑が吉田寅松の功績を伝える

吉田寅松最終章

 吉田寅松が金井良案碑を建てた明治二十九年当時、久良岐部長を務めていた箕輪三郎は、寅松が明治三年から取り組んだ一つ目沼地約七万坪の埋立事業を進めていた時期に、行政官庁の長として深くかかわった人物であった。

 題字の揮毫は、中島信行男爵に依頼した。中島信行は、弘化三年、現在の高知県土佐市に生まれ、土佐勤皇党に参加したのち坂本龍馬の海援隊などに加わった。明治維新後は兵庫運上所で外交・貿易事務に従事し、明治三年には商業調査ため欧州へ渡航。アメリカで財政・金融制度の調査をおこない、明治五年に帰国後、横浜運上所(横浜税関)長官となり、明治七年には神奈川県令を務めた。その後、元老院議員として憲法草案作成にも尽力。明治十三年に元老院を辞任し、翌十四年には板垣退助らとの自由党結党に参加して副総理に就任。明治二十三年、帝国議会開設に伴う第一回衆議院選挙で当選、帝国議会で初代衆議院議長に就任。明治二十五年、イタリア駐在特命全権公使、明治二十七年に貴族院議員に勅選され、明治二十九年六月に男爵を授けられた。また、陸奥宗光とともに、坂本龍馬の「新政府綱領八策」の実現にも力を尽くした。

 吉田寅松は、明治三年九月、横浜蓬莱町の自宅を事務所として合資会社「吉田方会所」を設立、一つ目沼地の埋立工事に着手。明治八年、工事を一段落させた功績により、時の県令・中島信行から銀杯一個が贈られていた。このように、吉田寅松と中島信行は、中島の神奈川県令在任期を通じて深い縁で結ばれていた。

 馬場の建功寺には、八丁堀の吉田與左衛門が奉納した天蓋が残されている。

 江戸時代、横浜の大岡川河口の釣鐘状の入海を埋立てて吉田新田をひらいた吉田勘兵衛は、現在の大阪府豊能郡出身である。寛永年間に江戸へ出て、石材・材木商を営み、江戸城普請に参加したほか、現在の荒川区南千住周辺の新田開発をおこなった。南千住の曹洞宗真正寺には、吉田家の墓石が並び、いずれも、江戸時代に材木商を営んでいた家だったことがうかがえる。

 吉田寅松の生家である橘樹郡旭村北寺尾の鶴田家も、代々治兵衛を襲名し木材を扱う旧家であった。文政十三年には八代目治兵衛が神奈川区相應寺の山門前の敷石を寄進し、文政八年正月には鶴見区上の宮の八幡神社境内に、鶴田治兵衛と金井茂右ヱ門が鶴見村に十一代続いた名石工・飯島吉六に彫らせた狛犬を奉納している。

 また、生麦の関口家当主が代々書き継いだ『関口日記』の明治元年十一月には、北寺尾鶴田治兵衛から玄波石四十八本を求めたとの記録があり、鶴田家が石材も扱っていたことがわかる。

 八丁堀の吉田與左衛門が建功寺に天蓋を寄進したのは、こうした北寺尾鶴田家とのつながりによるものと考えられる。

 吉田寅松は、明治八年に橘樹郡西寺尾村道路を自費で改築し、その功績により県令より銀杯一個を下賜されている。

 六年前、「東洋のレセップス」という言葉に惹かれて連載をはじめた。当初は五回か十回で終わるだろうと思っていたが、次々に新資料が現れ、書きたいことが増えつづけ、紙幅の制約や私自身の怠惰もあって、まとまりを欠いたまま今日までつづいてしまった。

 最終章は、吉田寅松の墓前に花を手向けて締めくくりたいと考え、寅松の生家・鶴田家の菩提寺である神奈川区の相應寺、久保山の吉田勘兵衛家の菩提寺、吉田家の父祖が眠る南千住の自性院、さらには「芝公園の墓地に葬られた」との記述をたよりに芝の増上寺及び周辺寺院を訪ね歩いた。しかし、寅松の墓を見出すことはできなかった。

 最後に、両親の眠る相應寺に詣で、さらに總持寺の浅野家墓地に眠る三男・鶴田勝三の墓前に手を合わせた。「東洋のレセップス」と称された鶴見出身の土木請負業者・吉田寅松の生涯を追った、本連載の稿を閉じることとしたい。

 ◆永い間のご愛読、ありがとうございました。

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