連載第一〇三一回 「高津文化の原点」 高津物語
高津の文化は一九〇八年(明治四〇年)と一九一〇年(明治四三年)の二回にわたる大洪水をきっかけに旧高津町のローカル町政を脱皮して、近代化への道へと舵を切った。その第一歩として、多摩川沿岸の東京府各町村長と地主総代の三三名と神奈川県各町村長地主総代井田文三ほか二三名が、多摩川洪水頻発のため、東京府及び神奈川県知事に「多摩川河身改修請願」を行った。
当時の堤防は、多摩川の曲流する、河川の水当たりの強い個所に堤防を築く、一時しのぎの「カスミ堤防」が普通だった。現在のように連続した堤防を築いて、多摩川の河水を閉じ込める方法とは違って、河水が増水すれば両脇の氾濫原に水を湛(たた)えて、徐々に洪水を押し流す方法だった。特に川崎市には、後に府中県道となる高さ一四メートルの川崎街道が走っていて、自然堤防の役割を果たしていたが、明治四三年の大洪水はこの街道も簡単に乗り越え、改めて多摩川築堤の重大性を知らされた。
多摩川上流の中野島や登戸で堤防が決壊し、旧稲田、生田の各村が浸水し、下流の中原区丸子や平間も大氾濫だった。幸区南河原の多摩川堤防が長さ約九〇メートルにわたって決壊して、現在の幸区と川崎の全域が水浸しとなった。
地主総代の井田文三は、現在の多摩区長尾の人、地域の青年と学習サークルを組織し、山根喜平、新井市左衛門、鈴木藤蔵(のち久弥)、井田啓三郎、城所範治等と「神奈川県治論」を唱え、自由民権運動に挺身して、溝口上田安左衛門らと親交を温め、交流した。
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