戦後70年経った今年、戦争の悲惨さを語り継ぐため、区民の体験、区内の風景を通して、幸区に残る戦争の記憶をたどる。中幸町に住む野口始男さん(78)は「さいわい歴史の会」に所属し、歴史や戦争の悲劇をまとめている。
1945年、何度となく空襲を受けていた川崎市は同年4月15日に大規模な空襲を受け、市内最大規模の被害が発生した。中でも大勢の死傷者を出したと言われているのが、今の幸警察署の前にあった「都町ロータリー」(円形の交差点)だった。現在の国道1号線(第二京浜)と柳町に向かう南幸町渡田線が交じる場所にあった。
円形の交差点の中央には一本のクスノキが植えられていたが、区民は通称「一本松」と呼んでいたという。国道敷設工事が中断中で、広い空間ができていた。
この広いロータリーは避難場所とされており、空襲が始まると多くの区民が避難したが、そこを1時間余りにわたって爆撃され、約200人の死者が出た。大勢の犠牲者が出たため「ロータリーの惨劇」などと呼ばれている。
野口さんは終戦の年、小学3年生で、同年3月から伊勢原市に疎開していた。「伊勢原でも頭上を艦載機が飛んでいた。15日の夜は川崎方向の空がピンク色に染まりきれいに見えた」と振り返る。その直後、仲間が次々と引き取られていき、野口さんも川崎に戻った。川崎に到着すると川崎駅は爆撃され壊滅、矢向駅までしか電車では行けず、そこから歩いて帰ったという。
野口さんの家族はロータリー付近に住んでいたが、避難場所のロータリーにはたどり着かず被害を免れた。その後、野口さんは親類や近隣住民から空襲の様子を聞き、今日に至るまで、当時の史料をまとめる活動を続けている。
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