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町田 社会

公開日:2026.02.26

鶴川が乗り換え駅に!?
100年前の幻の路線を辿る
「相武電気鉄道計画」とは

  • 緑が相武電気鉄道のルート。横浜線、小田急線は既にあったが田園都市線はなかった(=画像提供・豊島さん)。

    緑が相武電気鉄道のルート。横浜線、小田急線は既にあったが田園都市線はなかった(=画像提供・豊島さん)。

  • 豊島さん(左)と社名板を持つ佐藤さん

    豊島さん(左)と社名板を持つ佐藤さん

  • 鶴川駅設計図。黄色い線が同計画路線。小田急の南側に入る計画だった。

    鶴川駅設計図。黄色い線が同計画路線。小田急の南側に入る計画だった。

 今から100年前の1926年8月、「相武電気鉄道株式会社」が設立された。目的は神奈川県の愛川町田代から相模原市の上溝、淵野辺、町田市の図師、鶴川、さらに中里(現在の市ヶ尾)、溝口へと抜けて渋谷まで続く鉄道を敷くこと。その後の街の発展を左右する壮大な計画であった。

 しかし、一部では線路敷設工事まで行われたもの、ついに営業運行に至ることはなく計画は幕を閉じる。100年前の幻の鉄道を追った。

相模川の砂利にニーズ

 話を聞いたのは、郷土史家の豊島直樹さんと計画発起人の一人佐藤昌寿さんの孫にあたる佐藤和夫さん。ふたりによると、計画は東京の出資者と上溝周辺の住民によって進められたという。当時は全国的な鉄道ブームで各地で「自分の街に鉄道を」という機運が上昇。また、関東大震災以降は頑丈な建物を作ろうとコンクリートの需要が高まり、材料の砂利を相模川から東京へと輸送するための路線としても開通が望まれた。

 会社設立の翌月、まずは現在の相模原市にあたる部分の許可が鉄道省から下る。さらに翌年には淵野辺〜溝口の許可も下り、上溝周辺では線路を敷設するための工事が盛んに行われるようになった。また、駅や車両の図面も書かれ、運行開始は確実に近づいていた。

 ところが、この時点で計画に支障を生じさせる事態は起きている。1927年3月、金融恐慌が発生。融資を受ける話が進んでいた「あかぢ貯蓄銀行」は片岡直温大蔵大臣の失言から姉妹行の「東京渡辺銀行」と共に休業した。さらに、2年後にニューヨークで発生した世界恐慌は翌30年、日本に波及し「昭和恐慌」となる。この不況の影響で東京の出資者が撤退。これにより資金調達の目途が断たれた計画はついに1936年、鉄道省からの許可を失い継続不能に陥った。

 最後の社長として残務処理にあたったのが佐藤昌寿さんだ。和夫さんは「祖父は後年でも計画について家族に話したがらなかったようだ。大変だったのではないか」と苦労をおもんぱかる。

 なお、町田市内では測量のみ行われたものの、具体的な工事には至らなかったと見られている。

今も遺構は点在

 ついに実現に至らなかった計画だが、その名残を感じるスポットはある。豊島さんによると、現在の相模線「上溝駅」が高架駅となっているのは下に相武電気鉄道を通す予定だったため。また、一度線路が敷設された地域では「畑を耕していたら線路が出てきた」というエピソードもあるという。豊島さんいわく「身近に歴史を感じられること」が郷土史研究の魅力だ。

 佐藤さん宅の蔵からは多くの資料が見つかった。社名板、路線図、鉄道省からの免許状など、計画が存在したことを示す証だ。「祖父は『街の発展のために東京とつながなくては』という思いが強かった。ただ、東京側に強い意志を持つ人がいなかったのではないか。そこに時期の悪さが重なった」と失敗の要因を分析する。

 なお、これ以降に鶴川と上溝方面を結ぶ計画は2度あったが、いずれも失敗。都市形成が進んだ現代で再び計画が立ち上がることはないだろう。佐藤さんは「何もない所に自由に線を引けた時代だからできた計画。そこにロマンがあるんです」とにこやかに話した。

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